息子の就学準備を始めるにあたって | * poco a poco * 少しずつ、一歩ずつ

* poco a poco * 少しずつ、一歩ずつ

2人の子どもたち(娘と息子)、私のありふれた日々をつづっています。
息子は2歳でインフルエンザから痙攣重積型(二相性)急性脳症を患いました。治療やリハビリについても記録しています。


年長さんの息子の就学準備がとうとう始まりました。

今日は就学準備を始めるにあたって、自分が覚えておきたいことを記録しておこうと思います。




2年前の冬、息子がインフルエンザに罹患し、

痙攣発作で救急搬送
 ↓
数日後から異常行動(暴力的な行動や発言)

「目も合うしやりとりもできるから様子見で」という病院をしつこく受診し、現在の主治医が検査に回してくれて、急性脳症だと分かりました。


痙攣重積型(ニ相性)急性脳症

指定難病

死亡率は低いけど、精神遅滞や知的障害、てんかんなどの後遺症を持つ可能性が高い病気でした。


そんな病気だと知っても、驚きや悲しみよりも「原因が分かって治療が始められたことへの安堵」を感じました。

そして病気のことや治療方法を鬼のように検索して…

数日経つと将来のことを思いました。

数日経ってようやく病気になったという現実にぶち当たったのです。


後遺症なしでいられる確率は高くなく、実際に言葉の数もぐんと少なくなり、落ち着きのない息子の様子を目の当たりにして、


通っている保育園に戻れるのか

小学校に行けるのか、中学校は?

高校生になって…

大学生になって…

就職して…

結婚して…


当たり前だと思っていた未来が

 “当たり前ではなかった” と気づきました。



それでも命が助かって、急性期でも運動面に目立った障害が残らなかったことには感謝しかありませんでした。

当たり前だと思ってた未来でなくてもいいから、息子が楽しく幸せに暮らして、周りの手助けを得ながらでも自立して生きていけるようにしてあげたい。

そのためにやれることは全部やりたい。

そう思いました。



急性期の治療を総合病院から退院し、2ヶ月のリハビリ入院を終えた2019年6月頃から具体的に行動開始。

その頃、息子は年少、上の娘は年長。

当時住んでいたところは県内でも交通も不便で、正直子どもを育てるにあまりいい環境ではなく、また職場からも遠い場所でした。


教育環境が整っている場所=療育環境や発達支援が整っている場所 と思っていて、

実家の近くか、私の仕事場の近くかで悩みました。

でも両親も高齢でできるだけ頼りたくない、実家の近くに住んだら自分が怠けるのではないかと思って、自分の仕事場の近くを選んで数ヶ月後に転居。

それが息子が年少の冬。


翌春、年中の息子は転園、娘は新天地で小学校に入学。

コロナの影響で少し間が空いたものの療育も新しい場所で受けることができ、2ヶ所の通院も今までの半分以下の負担でできるようになりました。

(これが本当に楽!)


娘が先に入学してくれたおかげで学校の雰囲気を知ることができたし、

個別面談のときには娘ののことではないのに特別支援学級のことを教えてもらえ、支援級の担任の先生と話す機会もいただけました。

快く対応してくれた先生方に感謝感謝です。


息子が年長になるや否や、保育園に就学相談をしたいことを告げ、教育委員会に伝えてもらいました。



やれる準備は全部した。

就学相談よ、かかってこい!

と意気満々としていたのですが、いざ始まるとなるとやっぱり不安です。。。


現時点では娘も通う学区の小学校の特別支援学級(知的クラス)への就学を想像しています。

それが息子が楽しく小学校に通うためのベストの選択。

でも…



娘はなんて思うかな。

やっぱり弟が支援級だと友達に何か言われたりするかな。

面白がられたり、からかわれたりするかな。

そうしたら娘はどうするかな。

いやだって思うかな。


…とか想像したら目から鼻水が出そうだ。




そんな気持ちでいたら、たまたま息子が見ていた鬼滅の刃・那田蜘蛛山編のとあるシーンが心に残りました。

禰󠄀豆子が危機迫る炭治郎を助けるために血鬼術を使うところなのですが…

そこに流れてくる “竈門炭治郎の歌”


たんじろ〜う笑い泣き



私や息子に課された運命は決して一択ではないけれど、



どんなことがあっても


息子が笑顔でいられるために


娘が笑顔でいられるために


頑張ろう


きっと大丈夫



笑顔で行くぞっと。