最近はことある毎にFelix Mendelssohn(IPA:[féɪliːks méndəlsən]若しくは[fíːlɪks méndəlsən] 1809~1847)が書いた『無言歌集』(Songs Without Words)の中にある『葬送行進曲』(Funeral March)を、栗山町にある拙宅のピアノで弾くときが増えている印象を受けている。

 

 「Satan([séɪtn] 敵対者。サタンとも)の息の根を止める為、またSatanが付け入る隙を作らない為の力となれば」という思いからことある毎にこの『葬送行進曲』を演奏しているつもりだが、普段通う地元の教会のピアノでもこれを弾いてしまうときがあり、これがそこへ集われる方々にとって「苦痛」と感ぜられてしまう傾向にあるようだ(>_<)。そこで「何の為にこの『葬送行進曲』を弾くのか??」という点についていま1度厳しく問い直そうと感ずる。何度か繰り返し申し上げている通り、限りある地上の命に於ける女性との結婚をキッパリ諦め「生涯未婚」を決意したにもかかわらずこれを諦め切っていない危険性が1つ考えられる。その根本的な原因として心のどこかに存在する「これで本当に良いのだべか?」という思いの存在がある。これもまた何度も繰り返し申し上げている通り、僕には限りある地上の命に於ける女性との結婚に必要な能力が備わっていない。それ故に「これで本当に良いのだべか?」という思いを破壊して捨てなければならない。この思いを破壊して捨てる為にも意識を「死」へ向けて、そこから「この『葬送行進曲』を弾けるようになろう」という思いを持つきっかけとなった可能性がきょうになって濃くなった。

 

 「子を持ちたくない」思いがハッキリすればするほど限りある地上の命に於ける女性との結婚について現実味が無くなる。あまつさえ、歳を重ねるほど「広汎性の発達障害」は重くなるばかりなのでこの自覚の芽生えた辺りで潔く去勢手術を受ければ良かったかも知れない(このことに大変強い罪悪感を覚える)。普段通う地元の教会で洗礼をお受けして何年か後(ノチ)に心理的去勢手術を施して下さった教会員の方はいらっしゃるが{その方には心より感謝しているm(_ _)m}、もし僕の葬儀でFelix Mendelssohnが書いた『無言歌集』の中の『葬送行進曲』が演奏されて欲しければそれこそ「遺言ノート」に記す手があろう。そして、僕には女性との結婚よりも遥かに重要な使命があり、それをまっとうしたら未婚のままで潔く死ぬしか道はない。以前申し上げた、「僕自身の葬儀の中でこの『葬送行進曲』が演奏されるイメージ」(記事・『結婚を諦め、葬儀へ』¶3を見よ)のもとで練習をするコトそのものは決して悪くなかろうと思うけれども、「態々(ワザワザ)教会のピアノで弾くのは何の為か?」という思いがきょう漸く芽生えてきた。1つ考えられることとして「家族や親族との信仰の大きな違い」がある。

 

 大雑把に申し上げるならば「結婚願望から物理的に遠ざかる為の唯一の手段」が僕にとってこの『葬送行進曲』を弾くことなのかも知れない。