かかりつけの心療内科を今週受診したときに、「年を重ねて慌てる前に『終活』を始めるのは悪くない」との旨のお声を賜り少しホッとしている僕がいる。

 

 2023年11月上旬に36歳の誕生日を迎え、俗に「アラフォー」と呼ばれる年齢に到達した僕。2027年の11月上旬には40歳となることを踏まえて、限りある地上の命に於ける女性との結婚をキッパリと諦め少しずつ「終活」に乗り出したところだ。と申し上げるものの本稿執筆時点に於いては「誕生から受洗までの歩み」と「受洗にあたっての証し」(前者を2ページに分けた)とを遺言ノートに貼り付けただけでそれ以降はまだ何も進めていない。但し、「遺言」としての証しは綴れるだけ綴ってみたので「普段通う地元の教会の牧師先生を通してご助言を頂きながら少しずつ本腰を入れたい」と考える。勿論これも可能な限り深く掘り下げられるとより良い「遺言」になるので可能な限り「良い遺言」を残したい

 

 ところが、昨朝偶(タマタマ)Internetを閲覧していると「『終活』はしなくて良い」という主張が綴られた記事を見付けて「『終活』が無意味だと!?ざけんぢゃねェよ!!」という思いになった(Webページ・‘The Gold 60’、2024年6月19日検索―FacebookにもShareを行った)。曰く「死後家族に見られたくないモノ、恥ずかしいモノを処分しておくことぐらい」はしておいた方が良い(id est:家族に知られたくない物事だけを処分すれば良い)との旨だが、僕は到底納得しない。同じ記事には「『エンディング・ノート』も無意味」との主張もまたあるのだが、これに対し言葉にならない程強い怒りを覚える(それ故、本稿のテーマは‘Anger’としてある)。勿論僕の葬儀を「何としても行え」などと申し上げるつもりは金輪際ないけれども、もし行うなら「キリスト教」で行うことは絶対だからだ(id est:もし僕の遺体が家族のもとに渡れば葬儀が「仏教」となる可能性がある)。僕の葬儀を行うなら「キリスト教で行われて欲しい」との旨は必ず綴るつもりだ。

 

 もし僕が神さまの御許(ミモト)へ帰るそのときに遺言などがなかったら、職場や仕事の拠点などでかかわって下さる方々や家族などが困ってしまう危険性は極めて高い。少なくともこのような事態を回避する為に「遺言」や「エンディング・ノート」などが何かしら役立つことは揺るぎない事実だ。それ故「アラフォー」に入ったことをきっかけとして少しずつ「遺言」を書き始めた(厳密にはMicrosoft Wordを用いて入力し始めた)ところだが、少なくとも「無意味」にはならない。「子どもを持ちたくない」という思いが既にハッキリとしていることも限りある地上の命に於ける女性との結婚をキッパリと諦めるきっかけとなったので、この点もまた可能な限り深く「遺言」として綴っておきたい思いがある

 

 いずれにせよ「『終活』は無意味」という主張は間違い。残された人たちが困ってしまう事態を回避する為に「遺言」や「エンディング・ノート」は必ず役に立つ。