限りある地上の命に於ける「女性との結婚」をキッパリと諦めた理由としてこれに「必要な能力が備わっていないから」という点が1つあるが、その反面「女性との結婚」よりも遥かに大切な使命が僕にはあることを感ずる。

 

 その1つとして「女性の社会進出」がある。僕の身近なところに於いても少しずつ大切な役職を女性が担うケースの増加を感ずる部分がある一方、「北海道」の社会へ視点を広げればまだ「女性の社会進出」が進んでいない(id est:今尚「女は家庭、男は仕事」という価値観が根強い)印象を受ける点は揺るぎない事実だ。地上の生涯を「未婚」で通すことは確かに「僕の本望」でないが、「女性との結婚」に必要な能力が欠けるからこそ社会に於ける「男女平等」の実現への献身のチャンスを神さまが下さっている点への確信を持っている{Notabene:イエスさまに縋(スガ)りながら、この確信を揺るぎないモノへ育てる意思が僕には必要}。また、社会に於ける男女平等は「持続可能な開発目標」(Sustainable Development Goals 所謂SDGs)の1つとして掲げられる。「僕の本望」より「神さまのご計画」の実現への献身が大切な点を僕はどこまで意識しているか?「いま1度問い直さなければならない時が来ている」と感ずる。

 

 あくまでも「僕の場合」だが、「神さまのご計画」の実現への献身の為には「女性との結婚」への思いを破壊して捨てなければならない。というのは、本稿を含め何度も繰り返し申し上げている通り「女性との結婚」に必要な能力の無い僕が仮令(タトエ)そこへ導かれても程なく「離婚」につながり「鵜の真似をする烏」になってしまうだけだから。それなら地上の一生を「未婚」で通すにしても社会に於ける「男女平等」の実現に献身する方が寧ろ「大きな喜び」を感ずる。かつて「喜び」と「幸せ」は異なるとの旨を聴いたことがあるので「神さまにある喜び」の為に献身する姿勢が僕には改めて求められていることを感ずる。また、神さまにある使命(Notabene:「地上の命を可能な限り長く生きること」では決してない)を達成したら潔く神さまのみもとに召されたい。

 

 また、「卒婚」という語をも聴いたことがあるが、僕にとってこれは事実上「離婚」に等しい。「価値観の多様化」をここから僕も感ずるけれども、「広汎性の発達障害」という見た目から解らないハンディーを抱えながら限りある地上の命を歩む当事者でありながらこれが一体全体どのようなハンディーなのかを理解していない(これが僕にとって最も辛い)僕にとってはこのような状況に陥ってしまう方が辛い。それ故、僕自身の「葬儀」について少しずつ本腰を入れて考え始め、ここから本格的な「終活」を一刻も早く始めなければ「神実現」への献身さえ不可能になってしまう。あまつさえ、僕にとって「女性との結婚」から物理的に遠ざかる手は僕自身の「葬儀」について考える以外に無い点も現実だ。「僕の思い」は「北広島市某所にある仕事の拠点から比較的近いある教会の墓地でヒッソリ眠っていたい」が、この点はまず神さまにお任せする。

 

 いずれにせよ、僕には地上の命に於いて「女性との結婚」をする資格が無い。それより「社会に於ける男女平等」の実現への献身が求められる。そこに注力する為に「女性との結婚」をキッパリと諦める原動力となった聖書箇所(新約聖書『マタイによる福音書』Chapter 5、§27~30)を示して本稿を閉める。

 

「あなた方も聞いている通り、『姦淫するな』と命じられている。しかし私は言っておく。情欲を抱(イダ)いて女を見る者は誰でも、既に心の中で姦淫を犯したのである。右の目があなたを躓(ツマズ)かせるなら抉(エグ)り出して捨てなさい。体の一部がなくなっても全身がゲヘナに投げ込まれない方がましである。右の手があなたを躓かせるなら切り取って捨てなさい。体の一部がなくなっても全身がゲヘナに落ちない方がましである。」