5月12日の礼拝から暫くの間、普段通う地元の教会ではなく北広島市某所にある仕事の拠点から比較的近いところにある教会の礼拝に、栗山町の拙宅か北広島市の仕事の拠点からかのどちらかからYouTube経由で出席することを決めた。

 

 僕の信仰の在り方を厳しく見直す為でもあるが、最近は「これで本当に良いのか?」と感ずることが多過ぎるほどにある。礼拝が終わってからの時間の過ごし方について厳しく見直した結果、教会のメンバーとしては疎か「『社会人』としてもなっていない」と感ずる。結婚願望から「物理的に」遠ざかる為の手段もまた十二分以上に厳しく吟味した上で講じなければならない点についていま1度痛感しながら本稿を執筆しているけれども、少なくとも礼拝に於ける讃美の伴奏を僕が担う資格が無い点(id est:僕よりも遥かに良い伴奏者が与えられる点)への確信がこの2回を通して与えられた。勿論「社会人」としてという部分については以前「意識し過ぎないように」とのご助言を賜っているので、これは尤もだ。

 

 本日、かかりつけの心療内科の先生を通し「社会人基礎力」の中の「傾聴力」と「空気を読む力」との重要さが示され、その無さについて正直に申し上げたところ「度が過ぎないように」とのご助言を頂いた。勿論「度が過ぎてもいけない」のは解るが、信仰生活に於いても社会生活に於いても両者が常に求められる点への意識の無さについて改めて思い知った。当然、神さまを僕の奴隷にしてしまうのは「何としても」避けたいので「自分への厳しさ」を養う重要性をいま1度痛感している(id est:「自分への厳しさ」は十二分以上になければならない)。それ故に「危ないことは怪我のうち」(類句として「君子は危うきに近寄らず」がある)という戒めがいま1度強く思い起こされるところだ。そこで普段通う地元の教会に於ける礼拝に「何としても」出席したいならば体ごと運ぶこととし、且つ伴奏の奉仕へは絶対に復帰しないことと礼拝が終わったら直ちに拙宅へ帰ることとを条件とし、本稿執筆時点に於いては「8月を目途に復帰する為神さまにあって整えられていこう」と決心を固めた。

 

 いま1度、僕の信仰の在り方について厳しく問われていることを痛感する。そこで、あの聖書箇所(旧約聖書『アモス書』、第6章§3~7)を示すこととする。「自戒」の為に。

 

 「あなた方は災いの日を追い払おうとして暴虐の支配を引き寄せている。あなた方は象牙の寝台に横たわり、長椅子に寝そべり、羊の群れから小羊を、牛舎からは子牛を取って食べている。竪琴の音に合わせて歌に興じ、ダビデのように自分たちの為の楽器を考え出す。鉢で葡萄酒を飲み最高の香油を身に塗るが、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。それ故、今や彼らは捕囚の列の先頭を行く。寝そべる者達の酒宴も終わる。」