本稿執筆時点に於いて、「遺言ノート」には地上の命の始まりから受洗までの大まかな経歴と、受洗にあたって申し上げた「証し」とを貼り付けてある。

 

 以前より申し上げている通り、僕にとって葬儀がキリスト教で行われることは絶対。ただ、母方の祖父(1921〜2003)の葬儀に参列して遺骨と対面したときのショックから父方の祖母(1919〜2015)及び母方の祖母(1927〜2017)の葬儀への参列は辞退せざるを得なかった。この経験をもとに考え、「参列を希望される方がいらっしゃる場合のみ僕の葬儀を行う」方向で整理がついたところだ。無論あわよくばこの意思については「遺言」としてしっかりと記しておきたい。また、仮令(タトエ)葬儀が行われなくてもキリスト教のお墓の中でヒッソリ眠っていたい点も事実なので、これについても「遺言」としてしっかり記す必要があろう。ちなみに、「肉の思い」としては指揮者・ピアニスト・作曲家のLeonard Bernstein大先生(1918〜1990)のお墓のような感じの墓石であって欲しい(コチラを参照せよ)。無論この点もまた神さまのご計画にお任せする。

 

 おとといの記事に於いて申し上げた「生前葬」を一時的に考えた訳としては「葬儀が行われない可能性」を踏まえ、という点が1つある。僕の葬儀を「何としても行え」などと申し上げるつもりは当然あり得ない。前述の通り、希望して参列なさり遺骨と対面してショックを受けられてしまい得ることを踏まえ、僕と同じ思いをして欲しくないからだ。当然「僕の葬儀を必ず行え」という意思である印象は絶対に与えたくないので、普段通う地元の教会の牧師先生か将来の移籍先の教会の牧師先生を通してご助言を頂きながら慎重に綴りたい。加えて、ことし11月上旬で地上の命に於ける37回目の誕生日を迎えるので、仮令生涯未婚を通す結果となっても悔いはない。何度も繰り返し申し上げている通り女性との結婚を許される為の収入を得る為の力がまず無い。あまつさえ、広汎性の発達障害を抱える当事者でありながらこれが一体全体どのような障害なのかについて解っていないのでこれが最大のネックになっている(当事者の僕にとって、大変辛い)。だからと言ってお相手になって下さる方へこの特徴について僕から理解を求めるようなコトなど金輪際あってはならない(id est:当事者は十二分以上に理解しなければならない)。

 

 何れにしても、おととい申し上げている「その時」が近いので「遺言ノート」に僕の意思をきちんと綴っておきたい。ことしのうちに必ずや。