父親はことし10月上旬に73歳の、母親はことし7月(ナナガツ)中旬に古稀{70歳(ナナジッサイ)}の誕生日をそれぞれ迎える。

 

 父親が2026年に、母親が2029年に所謂「後期高齢者」になることを踏まえると北広島市にて1週間の勤務を終える毎に栗山町の拙宅へ帰れなくなる「その時」が近いことを感じずにいられない。本稿執筆時点に於いて、僕自身は「その時」への備えとして北広島市某所にある仕事の拠点を「終の棲家(スミカ)」として其処から比較的近いある教会に籍を移し、「仕事の拠点から神さまの定められる『その時』に従順に天へ召されよう」と覚悟を決めている。勿論生涯未婚は本望でないけれども、「僕の本望」よりも「神さまのご計画」の成就の方が遥かに大切だ。ただ、神さまは生涯未婚の生活の中で「地上の命に於ける女性との結婚よりも遥かに素晴らしいご計画」を用意して下さっている。この点にしっかりと信頼し、「僕の本望」よりも「神さまのご計画」の成就の為の献身を忘れずにいたい。

 

 ある夜、本当に偶然Internetを検索すると「生前契約」について記されているWebサイトを見付けた。一時的に「生前葬」を視野に入れたけれどもキリスト教には「生前葬」が無いことをそのWebページから知りそのときは確かに稍(ヤヤ)意外に思った。以前も申し上げた通り「参列を希望される方がいらっしゃる場合のみ、キリスト教で」僕の葬儀が行われて欲しいことは無論今も変わりない。一時的に「生前葬」を考えた理由として考えられる事柄として「僕の遺骨をキリスト教のお墓に納めて欲しい」という思いと「僕の葬儀に参列される方々を悲しませたくない」思いとがあったかも知れない(特に後者が強いか?)。ただ、キリスト教に「生前葬」が無い代わりに「生前契約」があることを知ったので可能ならば仕事の拠点から比較的近いある教会とこれを締結し、地上の命が尽きるにあたり先述の通り仕事の拠点や職場などで関わって下さる方々のうち希望される方々のみ参列して頂き(id est:社葬で行って頂き)且つキリスト教で葬儀が行われて欲しい。特にキリスト教の葬儀とキリスト教のお墓とは僕にとって絶対だ。無論、この意思は「遺言ノート」にしっかりと記しておきたい。

 

 当然僕が両親より早く召されるケースも考えられるので、いつ「神さまの定める『その時』」になっても良いよう、あわよくば40歳になる前に準備を完了させたい。