きのうの続き。同じ日、同じ敷地内にある『栗山町開拓記念館』(以下、開拓記念館)をも訪問し、コチラもまた28年振りの訪問となった。

 

 きのうの記事に於いて申し上げた『泉記念館』のレトロな雰囲気に対し、『開拓記念館』はモダンな雰囲気と外観とに特徴がある建物だ(vide infra:勿論、許可を頂いた上で撮影・掲載している)。

今回は『泉記念館』を拝見してからコチラを訪問するという順序で訪れたところだが、そのお蔭で開拓から近代までの栗山町の変遷をより強く感ずる今回の訪問となった。『開拓記念館』には小学校2年生の頃にも1度行っていて、そのときも『泉記念館』を見学する予定だったのだが時間の都合で『開拓記念館』のみの訪問・見学だったことを覚えている。また、家族でも1回だけここと『泉記念館』とを訪問する機会を作ってもらったことがあった(そのときも『泉記念館』を見てから『開拓記念館』を見た)ので僕にとって今回で『開拓記念館』の訪問は4回目となった。

 

 入館すると昔使われていた生活用品などが色々と展示されていて、その一部をまず本稿に掲載する(vide infra)。

 

 

 

これらの展示からまず、泉麟太郎氏(Mister Rintaro Izumi: 1842~1929)の生きた時代からの生活の変遷をまず感ずる。本稿にここまで掲載した写真の中では「ミシン」が特に印象に残っており、父方の祖母(1919~2015)も存命中に似たようなミシンを使っていたことをこれから思い起こすときがあった。メーカーは異なるが。また、「柱時計」は『泉記念館』にもあったけれども、『開拓記念館』に展示されているそれは父方の祖母の家にあったモノ(記憶のある限り、父方の祖母の家にあったそれは「ただあるだけ」の状態だった)を僕の中では彷彿とさせる印象。

 

 他方、「最近展示が始まったか?」と感じさせる資料も幾つかあり、昔の「栗山駅」の看板(vide infra)は最近になってからInternetで見付けた展示だったので比較的モダンな展示という印象を受ける部分がある。

この看板は恐らく「夕張鉄道線」が通っていた頃に使われていたモノだろうと考えられるが、その近くにはかつての栗山駅のプラットフォームを跨ぐ際に必要な設備で活躍していたと思われる看板も展示されていた(vide infra)。

記憶のある限り、現在の駅舎が竣工する前に僕もこの看板が活躍しているところを見たことがある。現在の駅舎は『くりやまカルチャープラザ』とつながっていて且つ「渡り廊下」が整備され、その「渡り廊下」がプラットフォームを跨ぐ設備の役割を担うこととなった為役目を終え、『開拓記念館』にて展示されることとなったのだろうと考えている。そして、比較的早期に北海道へ渡ってきた人たちの生活のありようの一部を垣間見られるジオラマ(vide infra:勿論本稿に掲載した写真以外にも撮ってきた)も健在で、これは記憶に残っている。

 

 

このジオラマからは草創期の開拓使たちの生活のありようの一部を垣間見られ、且つ動物たちも剥製で表現されている。そして、昔懐かしい「栗山小売市場」(少なくとも小学校2年生の頃ならばあった)の名称を記した提灯も展示されていた(vide infra)。

 

更に、栗山町内の学校に関する資料もあり、特に廃校となった2ヵ所の小学校校舎の現役時代の写真が印象的だったので写真に撮っておいた(vide infra)。

 

このうち「雨煙別小学校」については校舎がリノヴェイションされていて再活用されているが、「杵臼小学校」については校舎が既に解体されているので現役時代の写真を見たければ『開拓記念館』に行かれることをお勧めする。

 

 『開拓記念館』は「モダン」な雰囲気の中で「歴史」と「レトロ」とを感ぜられる素晴らしい場所だ。それ故、ことしのゴールデンウィークの後半の何処かで両者を再び訪れたいと思っている。