Ukraine情勢が深刻化していることについてはおもにラジオのニュースから感じ取りながら生活を営む僕だが、だからといって例えばRussiaの方々やRussia出身で北海道在住の方々を恨んだり差別したりすることがあってはならないことをも同時に感ずる。


 何度か繰り返し申し上げている通り高等学校2年生の頃に学校行事で広島にある「平和祈念資料館」を見学する機会を得、核戦争の「むごさ」・「悲惨さ」・「辛さ」・「苦しみ」・「恐ろしさ」などを強く感じ取り、それ以降毎年8月6日(広島原爆の日)と8月9日(長崎原爆の日)とには平和への祈りと鎮魂の思いとをこめて、原子爆弾(Atomic bomb 以下、原爆)の炸裂した時刻に合わせて祈りを捧げるようになった(受洗以降は、その思いを示す言葉を慎重に紡いで祈るようにしている)。誤解を恐れず正直に申し上げるなら、受洗前の僕ならThe USA(The United States of America:アメリカ合衆国)の方々や同国出身で北海道在住の方々への「憎しみ」さえ抱くときがあったのは揺るぎない事実だ。半ば漠然と。でも比較的最近になってから1945(イッセンキュウヒャクヨンジュウゴ)年の原爆投下に関し「真実を知りたい」という思いを持つThe USA出身の方がいらっしゃることを知り、このことに大変強い感謝の思いが芽生える1つのきっかけを得た。そして2017年の受洗以降は毎年「原爆の日」を迎える度に当時被爆された方々にとって本当に必要なことは何か?という点を考えるきっかけを得られたことも大きい。


 V. Putin大統領(以下、Putin大統領)は「核兵器」の使用について示唆していると聴くこともある。勿論核兵器の使用を断じて許さないのは事実だが、視点を変えて考えるとPutin大統領の中に何かそれを急がせる要素がある可能性は捨て難い。Internetを検索すると「焦燥」についての記述を含む記事を見付けることがあり、もしかしたらPutin大統領の中のどこかに「焦燥」へ駆り立てる要素(id est:Putin大統領にしか解らない「葛藤」)がある可能性がない訳でもない。当然僕はPutin大統領でないので察しかねるが、核兵器を使いたくないのが本音なのではと感ずることも事実。広島を初めて訪問してから18年が経つ今、僕たち人間が何かしらの「罪」(Sin)を抱えながら限りある地上の命を歩む存在であるという事実と向き合うと「核戦争」もまた僕たち人間が犯してしまい得る「大罪」であることを強く感ずる。


 Ukraine情勢に関する報道からRussiaの方々やRussia出身で北海道在住の方々への差別や憎しみなどは何の解決にもならない。情勢が緊迫化してきている印象を受ける中、改めてそれらではなくUkraineやRussiaの方々の為に「祈る」ことの大切さを痛感する。