この世に倣ってはならない

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 「あなた方はこの世に倣ってはなりません。寧ろ、心を新たにして自分を変えて頂き、何か神の御心(ミココロ)であるか、何が善いことで神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁(ワキマ)えるようになりなさい。」(新約聖書『ローマの信徒への手紙』Chapter 12, Section 2)

 

 前稿冒頭に記した聖書箇所が示される2夜前のことである。普段通う地元の教会の牧師先生を通しこの聖書箇所が示された。『横浜指路教会』(神奈川県)のページに、本稿冒頭の箇所にある「この世」とはイエスさまが来られ、その救いの御技(ミワザ)がなされる前の「罪と死とに支配されている時代」(id est:古い時代)を示す旨と、これの対極に「イエスさまのもたらされた『新しい時代』をPaul(パウル、パウロとも)が置く」旨とが記されている(id est:古い時代と新しい時代とは正反対である)。また、この「古い時代」は僕たちを「古い時代の古い生き方の鋳型にはめようと」しており、これを捨てて「イエスさまのもたらされた新しい生き方を身に付けること」が信仰生活に於ける目標、とも記されている。更に、「自分の思いが神さまの御心により常に正され、変えられ、新しくされていくことを受け入れ、それを祈り求めていくことが信仰生活に於ける目標」ともそこには記されている。

 

 本稿冒頭に記した聖書箇所が示された夜、これについて吟味すると「小学生時代以来唯一の友達且つ今は友達以上の彼や、主から与えられた家族との関係を強めることが神さまの御心である」(=「神さまとの良い関係」を構築する為に、これが大切)と感じた。でも、そのページにある記述を基に思い返せば、本稿執筆にあたり「自分の思いが常に正され、変えられ、新しくされること」を、普段の生活に於いて拒もうとしていないか?という疑問がふと湧いたのだ。両親(父親・母親共にNon-Christianだが、僕は両親共に救われることを切に願う)が僕の恋愛や結婚に青票を投ずる理由がぼんやり見え始める迄にさえ受洗から約2年を要したところだけれども、これについて視点を変えた上で考えると牧師先生を通して示された通り、両親が現実を見ているだけと言えなくもない(現実だけを見れば、僕も確かに「結婚は無理」と感ずる)。もし両親を通して示される考え方や感じ方が前の段落に引用した「古い時代の古い生き方の鋳型(=「この世に倣う」こと)にあてはまるというのなら(本当はそのように感じたくない)、イエスさまに従う為これをまず捨てることだろう。葛藤が生じ得るけれども。

 

 「『現実を超えた神さまのご計画』に信頼しようとしているか?」そして「信仰生活に於ける目標をきちんと意識しているか?」「この聖書箇所の言う『古い時代』にいつまでも倣おうとしていないか?」これらについて問い直す大切さを改めて痛く覚えた僕である。