兵士の生命を尊重せず、
生命を守る配慮に極端に欠けていたのが
日本軍隊の特徴であった。
圧倒的勝利に終った日清戦争をみてみる
と、日本陸軍の戦死、戦傷死者はわずか1417名に過ぎないのに、
病死者はその10倍近くの11894名に達している。・・・
これは軍陣衛生にたいする配慮が不足し、兵士に苛酷劣悪な衛生状態を
強いた結果である。
日清戦争では悪疫疾病に兵士を乾したが、日露戦争の場合は兵士を肉弾
として戦い、膨大な犠牲を出した。
火力装備の劣る日本軍は、白兵突撃に頼るばかりで、ロシア軍の砲弾の
集中と、機関銃の斉射になぎ倒された。
旅順だけでなく、遼陽や奉天の会戦でも、日本軍は肉弾突撃をくりかえし
莫大な犠牲を払ってようやく勝利を得ている。
日露戦争後の日本軍は、科学技術の進歩、兵器の発達による殺傷威力の
増大にもかかわらず、白兵突撃万能主義を堅持し、精神力こそ勝利の
最大要素だと主張しつづけた。
その点では第一次世界大戦の教訓も学ばなかった。兵士の生命の軽視を
土台にした白兵突撃と精神主義の強調が、
アジア太平洋戦争における大きな犠牲につながるのである。
兵士の生命の軽視がもっとも極端に現れたのが、補給の無視であった。
兵士の健康と生命を維持するために欠かせないのが、兵粘線の確保であり
補給、輸送の維持である。
ところが精神主義を強調する日本軍には、補給、輸送についての配慮が
乏しかった。
「武士は食わねど高楊子」とか、「糧を敵に借る」という言葉が常用されたが
それは補給、輸送を無視して作戦を強行することになるのである。
藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、pp.10-11
インパール作戦、皇軍兵士の死肉も食べた。