少し前に、
中学受験界の空気と、
世代間のノリの違いの関わり
について書きました。
あれはねーーーー。
ほんと、非常に示唆に富んだ指摘だと思っていて。
(わたしの指摘ではなく、友人の指摘なんですが)
今の
ガリガリゴリゴリ系の
中学受験界の雰囲気
を作り上げている層って、
就職氷河期前半を経験された方々
だと思うんですよね。
で、その世代の中で、お子さんに中学受験をさせよう、となった方々というのは……
その世代の中の「勝者」
だと思うんですよ。
就職が急に厳しくなって、酷い目にあったけど、周りには落伍者となった人たちもいたけど、でもそんな中でも自分はキッチリ就職して、社会的成功を収め、結婚もし、子供も設けた。
そういう方々。
「俺たちは自分の力で
厳しい世間の荒波を
乗り越え
見事に成功した」
という自負がある。
わたしの友人はそういう方々を
「弱肉強食の権化」
と称していましたが……www
それ!
かなりわかるぅ~~~!!!
と思いました。
少し年代上の社会的成功者の方々の世界観って、すごーーーーーくコントローラブルというか。
人生は己の努力次第で
コントロール
できるものである、
という意識が結構強いんだよね。
目的のために犠牲を払わなければならないこともあるけれど、覚悟を決めて犠牲を払えば結果が得られるはず!!
結果が得られないのは、努力や覚悟が足りないから!!
強い者が勝つ!
そして勝つことが正義!!
みたいな、そういう人生観。
ご自身の成功体験により形成された人生観なのかなと思います。
それがお子さんの中学受験に対する感覚?価値観?にも影響していて。
「願い、そしてしかるべき犠牲を払えば、なんであっても成し得るはず!!」
というノリを感じるんですよね。
そのノリが、今の中学受験界の過熱の一因かなぁ……と。
わたしは、その価値観にはあんまり共感できなくて。
わたしの世界観は、もうちょっと諦観入っているというか、
「人生、
自分の意志や努力だけでは、
どうにもならないことも
たくさんあるよね」
みたいなノリです。
人生や世界には、個人がコントロール不能な部分が、かなりある、と思っています。
そんな、なんでもかんでも、努力次第で意のままにできる、という感覚がないの。
この世界に対して。
わたしたちは、就職氷河期ラストくらいの世代でして。
そこでそのときに味わった挫折感・敗北感みたいなものが、自分の人生観に色濃く影響していると思います。
自分も挫折を味わったし、たくさんの友人達が苦労するのも見てきた。
たまたま自分はどっかに就職できたとしても、そうでなかった友人たちと自分の違いはなんだったか、と考えた時に
「彼等は努力が足りたかったのだ。
わたしは努力したから報われたのだ」
とは感じていないのです。
そこに理由を見出していない。
弱肉強食論での解釈をしていない。
それよりも、自分も友人たちも皆、自分たちの意志ではどうにもならない時代の流れに翻弄された、という印象を持っています。
就職後の会社員人生の中でも、不条理をたくさん見てきて。
その結果、必ずしも「社会的成功者=優れた人間」ではないなぁ、というのも、大いに感じるところです
優秀な人が、能力のある人が、評価されるとは、限らない。
人として立派な人が、社会的に成功できるとも、限らない。
努力したら、報われるとも限らない。
そんな不条理を感じながら生きてきた。
世の中には、勝者と敗者がいて、その間の格差はどんどん拡大していくようだけど、何がその勝者と敗者を分けるかというと、それは必ずしも才能とか、努力の量ではなく、結構
「たまたま」
みたいなところもあったりする。
別に、同世代の人全員が同じ価値観で生きてるなんてことは思いませんが。
わたしの世界観は、そんな感じです。
それが、わたしが、過熱する中学受験界に「?」と感じる理由なんじゃないかな、と思っています。
そもそもベースとなる人生観が違うので、中学受験観も違うような。
「強い意志で戦い抜いて勝利を掴め!」というよりは「置かれた場所で咲きなさい」的な……
さて、これから数年で、どうなるのかしら。
中学受験界。
このまま過熱の一途を辿るのか。
それとも諦観世代のノリを反映して、もう少しトーンダウンするのか。
観察していこうと思います。
まぁ、全体がどんなノリであっても、わたしの人生観はわたしの人生観で変わらないのかな?とも思いますが。
いや、周りの影響受けて、ゴリゴリ系に変わったりするのかもしれませんけどね(笑)