ぐだぐだといく 8. | よろず話屋

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テスラが充電器部門を閉鎖したとかどうとかネット記事があり、EV化が減速気味という。

どこかから温暖化対策とかいわれて、合言葉として脱炭素社会といわれ将来の子供のためにどうとかいう。

ところが意外と今の年寄も含めて若者でも危機意識を持つ人がいれば、別にどーでもいいと特に意識せず他人事で無駄に地球環境に悪くても別段その行動を変えようとしない老若男女が多いのも現実だ。

 

挙句に経済や国の財政の税収のための少子化対策も声が大きく、どのみち年齢が高いほど順番的には早くこの世からいなくなるわけで、子供や若者らが自ら自分たちの将来の環境を軽視するなら、それはそれで彼らの老後などの時代を今の老人が気にする必要もないだろうと素直に思う。

 

どうも政治家やマスコミなどからぐだぐだと声がでてくるが、今もそうであるように、将来もその時を生きてる連中がその時の問題を解決しようと努力するか、しないかだけのことだ。

 

例えば昔を生きた坂元龍馬などに今の状況の解決をもとめてもとっくに死んでいるし、彼自身も今の日本の状況はしらないし意識のしようもない。

 

そういうごくごく当たり前の現実。

 

そういわれて何か違和感を覚えた人もいるかもしれないが、そんな違和感をどうこう言う前に、温暖化にしろプラ汚染にしろ国の財政や経済のことにしろ、自分自身でどうにかできることがあるならいい方向になるように何かしたらいいだけでしょ?

 

そんだけのことなんだな。

 

別に何も手がないのにただ人口だけ維持しましょうとか、自分の居場所だけ人口増加させましょうとか、きっと何もいいことにはならないでしょうね。

他人の福を自分がかっさらうことを求めるばかりで、どうにかいい方向になると思う人はいないよね。

 

しいていうなら自分らが生きてる間だけ自分らだけ問題なく幸福でいれればいいや程度のそういう人が多くいそうな現状で、なにかがどうなると思うこと自体悪化の一途でしょうね。

 

蜘蛛の糸のように天国からたれさがった蜘蛛の糸を昇るカンダタとそのあとに続くそのほかの人々というのが人間の事実であろうと昔から思う。

 

結論はどうやら、そのようなエゴだらけの人々の個人の行動は蜘蛛の糸が切り離されてすべての人がまた地獄に落ちていくということで締めくくられているが。

 

子供子供とよく聞くが、20年も生きれば大人になっており、挙句にそれでもまだ子供だ!といってればどうにもならん。

 

あるいは今を生きる大人のための社会ではなく、子供のための社会にすべきだ!などと、よほど恵まれた環境に生きているのだろうことは簡単に想像がつく。

 

基本的に、いちいちこんなこといわなきゃいけないのか?と、暗澹たる気持ちになるが、赤ちゃんはよく泣く。

幼児もよく泣く。

子どもは泣く。

ところが小学生、中学生、高校生ともなるとどんどん泣かなくなる。

 

なーんでだ?

 

記憶にないだろうが赤ちゃんのときはよく泣き、幼児のころもよく泣き、子供のころでもよく泣く。

 

例えば転んでひざを擦りむいた。

ひょっとすると全然泣かない幼児もいるのかもしれないが、いつごろから泣かなくなっただろうか?

そうして、なぜ泣かなくなったのだろう?

 

あるいは「この馬鹿!」といわれて泣いたことはあるだろうか?

泣いたことがあるなら、いつから「この馬鹿!」といわれて泣かなくなったのだろうか?

大人になると「この馬鹿!」といわれてつらくて自殺するようになるのだろうか?

 

毎日毎日そういわれ、会う人会う人にそういわれていれば心に変調をきたしてふらふらと自殺行為をするかもしれないが、ぽろっと一回いわれてそうなるだろうか?

 

あるいは有名になり、TVに出るようになり、多くの部下を持つようになり、多くの人から自分を否定されるような言葉をネット上や陰口や他人経由でしらされたりすることが増えていったときに、もうだめだと生きることをあきらめるだろうか?

そもそも、そういうことになる人が有名になったりTVにでたり多くの部下に指示などできるだろうか?

 

有名な家電製品の会社の創業者がいうように、「人様はちゃんと見ている。」というぐあいに、有名になるならなるなりに、TVに出続けるなら出続けるなりに、多くの部下を持つならば持つなりに、自分を否定する人以外の支持者や応援者や同士もやはりそれなりにいるものだ。

 

結局は人の世とはそういうものであり、なにやら人間を凌駕した理屈のかたまりの空想社会を現実につくろうというイカレポンチの存在自体社会がいかれポンチになる元だ。

 

勉強も勉めて強くなるためであり、臥薪嘗胆も我に艱難辛苦を与えたまえ!と、その苦労に耐えれれば耐えれるだけ同等の大きな事業を成せるわけだ。

 

人間の真実といえる。

 

ちょいとこづかれて「うえーん!」とまいっていると、そういう人ははてさてどこまでのことができるのだろうか?

 

戦時中にいわれた「精神世界は無限である!」などという気はない。

それですら決して無限ではないのだから。

だが、心弱くていいという現実はないし、それなりに心強くないと何も成せないであろう。

 

とはいえ、人は考える葦であるから、勇気といっている蛮勇が人の強さではないし、知識だけの脳内空間だけでも強さではない。

 

そもそも、人を含めて動物は数多く存在しており、人には人の強さがある。

 

動物のように生きて自分は強いと思うのか、人が人としてほかの動物とは違う理由の強さを強いと思うのかですら同じ人でもすでに別種の人である。

 

子どものころはそれなりに泣いた。

そのころに泣いていたことに泣かない大人。

 

なぜ?

 

「年をとっても泣くことはあるよ。」

 

そういうこともあろうが、それでも泣かない人もいるであろう。

 

なにかの大会で努力の末に優勝したら泣かないだろうか?

その時泣いたのに、次に優勝したときはなぜ泣かなかったのだろうか?

 

子どものころは泣いたのに、大人になった今はそれで泣かない。

 

なぜだ!?

 

やはり中年でも高齢者でも転んでひざを擦りむくとオイオイと泣くのが正しいのだろうか?

 

とりあえず、原子力発電を推奨しているわけではないが、結局温暖化対策と放射能物質とを選択するとして、地球規模の天候危機を優先するか、発電後の放射性廃棄物を優先するかとはいえ、それでも今すでに電機は必要であるという必要性も考える必要があるということ。

 

温暖化対策にはなる、ところが原発は放射性廃棄物がたまる。

 

そうして安定した電源がほしいのならば・・・・どうしよう?ということ。

 

だから本当に雷の電気を瞬時に蓄えられる蓄電池でも生まれればまた別のいい手もあるけれど。

 

また、例えば俺の場合は車は必ず新車で買うのだが、これは個人的に車が好きというのもあるが、経済的な社会貢献でもある。

もっとやすく浮かせようとすれば、それはそれでほかにも手はあるが、好きなゲームを新品で買うのも車と同じように経済的社会貢献という自己満足だ。

矜持でもある。

 

他人がどうしようとひとそれだが、結局新車買う人がいなけりゃ自動車会社もなくなるし、ゲームも同じだ。

 

別に他人に強制することでない、まったくない個人的な矜持だ。

 

同じように推しに金かける人もいるが、それも同じだ。

 

「馬鹿だな。」とか「安く買えた、あいつら馬鹿な。」とか、こんな人ばかりだともっと日本で生活するのはきつく苦しくなるだろうな。

 

そういう人らを責めているわけではないが、基本的にほめることも別になかったりする。

 

詐欺とかの犯罪行為でお金をむしられてないなら、それぞれの好きなところにお金つかえばいいさ!という話し。