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児童福祉・司法福祉について考えてみる。

留岡幸助(とめおかこうすけ)(1864~1934)の生涯が映画化されるようである。


http://www.gendaipro.com/tomeoka/news.html


少年感化事業の先駆者。明治32年に東京巣鴨の家庭学校、

大正3年に北海道家庭学校を設立。


彼もまた、家庭に重きを置く。


教育上一番大切なものとして、家庭を。

次に大切なものとして、学校と社会を位置づける。



悪いことをしてしまった子どもを責めるだけでは、何の改善にもつながらない。

その子の根性が腐っているわけではない。

育ってきた環境がそうさせているのだから。


あるべき家庭の姿を知らない子どもたちに、遅ればせながらでも家庭のぬくもりを

感じさせる場所をもっと増やしたい。

誰かに見守られているという安心感を、できる限り多くの子どもたちに与えたい。


あらためて。

子ども手当もいいけれど、児童福祉・司法福祉に潤沢な予算をつけるべきだろう。




昨日のシンポジウムで聞いたこと。


現代家庭では、子どもはする(doing)自己から解放されず、

ある(being)自己になれていない。


子どもはbeingを受け止めてほしいというのに、

親は子どもに対し、doingばかり要求してしまう。

ここに食い違いが生じている。


そのとき、子どもは何を思うか。

自己が受け止められないことのもどかしさ。不安感・・・。

生きづらさを感じるかもしれない。


ひきこもりについて学ぶなか、非行に大きな関心をもつ私は、

これらの起点は共通しており、やはり家庭にあると確信した。


家庭において親は、beingを受け止める必要がある。

親にそれを求めることが難しいのであれば、その子どもにかかわる人すべてが。

そうすれば、子どもは今よりずっと生きやすくなるのではないか。


swのありかた、子どもに対する接し方。

意識はやはり、beingの受け止めに置かなければならないと強く感じた一日であった。


1、社会的引きこもりの概念


一般に、社会的秩序維持のために必要とされる主なものを三つ。

それは、労働・結婚・コミュニケーション。

人は、社会防衛的・社会保安上の意識から、これらを行わない人間に対して

否定的なまなざしを向ける。

彼らはやがて、周辺的個人・反秩序的存在と位置づけられ、

社会的ひきこもりが誕生するのである。


2、人間性の二重性

自己というものは、実は二重性をもつ。


すなわち、する自己(doing)、ある自己(being)。


前者は社会的自己であり、後者は存在論的自己といえる。

  

構造的にみれば、ある自己を基底として、する自己がその上に

乗っかっているような格好である。


本来であれば、する自己は、家庭に帰れば解放され、そこからは

ある自己が登場するはずである。


しかしながら、現代の多くの家庭においては、する自己の発揮が

必要とされている。


ある自己はまた、受容器であるともいえる。


すなわち、外部世界を受け容れるため、する自己をギリギリまで

発揮させようと努力するのである。


ただ、それにも限界があり、やがて受容器損傷の危機が訪れる。

この時をもって、人はひきこもることになる。


従来、ひきこもりとは、する自己の撤退と捉えられてきたが、

実は、ある自己の損傷があってはじめて生じうるものなのである。


ある自己が先行し、する自己はそれに従っているだけなのである。