■日本人名を名乗る事を嘆願した朝鮮人たち■
創氏改名の きっかけとなった理由のひとつに、満州へ移住した朝鮮人からの要求や嘆願が
あったことは、あまり知られていない。
満州はもともと清国を開いた満州人の祖国であり、清朝時代には漢人(中国人)の入植が禁
じられていた。19世紀未には入植が解禁されたが、その少し前から満鮮国境にいた朝鮮農
民は、じょじょに入植をはじめていた。それがもっとも多かったのは間島地方である。
入植解禁前に漢人はすでに満州に入って盗伐や盗墾を行っていたが、朝鮮人は盗伐者たちに
雇われて働き、だんだんと 定着農民となっていった。朝鮮人の多くが水田、漢人の多くは
旱田耕作という棲み分けはあったが、しばしば衝突もあった。もっとも大きな衝突は
「万宝山事件」であり、それをきっかけに韓国人はソウルをはじめとする大都市の支那人へ
報復虐殺を行った。
日韓合邦当時、満州には約150万の朝鮮人がいた。彼らは絶えず漢人から圧迫され、搾取
され、農奴に近い生活を強いられていた。やがて朝鮮人狩りが起こる。朝鮮人をもっとも
嫌ったの張作霖で、「満州には朝鮮人をひとりも入れさせない」と息巻いていたほどである。
この朝鮮人迫害は、漢人・韓人たちの満州資源争奪の争いを助長した。
このような歴史背景下で、朝鮮人にとって唯一の救いは、当時五強のひとつであった大日本
帝国の臣民となることだった。唯一、中国人に対抗できる切り札であったため、朝鮮人たち
はすすんで創氏改名を強く要求したのである。日本こそが、朝鮮人にとって合邦国家の民族
の誇りであり、中国人の跋扈に対抗できるただひとつの勢力だったのだ。だから満州事変以
後、関東軍が関東州から北上してきたのをもっとも喜んだのは朝鮮人だった。