太平洋戦争がはじまると、塩田や農地だった阿多田半島の土地を接収し昭和十七年大竹潜水学校平生分校が開設された。昭和二十年水中特別攻撃隊、特殊潜航艇,蛟竜、海龍、人間魚雷回天の訓練基地となりました。戦後ニュージーランド軍進駐の後、昭和二十三年少年刑務所新光学園が開院、昭和五十二年業務停止後、平成十三年施設は解体され、阿多田交流館が造られました。

平生の阿多田半島は塩田や半農半漁の集落が広がる所でした。太平洋戦争末期昭和十九年、阿多田に海軍潜水学校が開設され、回天、蛟竜、海龍の特殊攻撃潜水艦の基地になりました。昭和二十年七月十八日、伊58号に六艇の回天を搭載し沖縄に出撃、五名の戦死者を出し、訓練中の事故により三名の殉死、戦後攻撃隊長一名が自決されました。海軍基地建設に百名余の阿多田の方の故郷を失い、当時を記録して阿多田交流館が建てられています。福岡空港も昔は板付空港と呼ばれ、戦時収容され造られた空港で戦後米軍管理の後も空港として利用されています。

 

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