文久三年(1863年)攘夷戦を覚悟した長州藩は関門海峡を通過する外国船の砲撃を実施被害を与えた、半月後報復に来た米軍艦ワイオミング号に軍艦二隻を撃沈されました。
文久四年(1864年)イギリス、オランダ、フランス、アメリカ、の四ヵ国は連合艦隊を率い長州藩の砲台を攻撃上陸備砲を持ち帰りました。馬関戦争と言われる戦いで近代装備の外国との戦いの無謀を知った長州藩は倒幕に藩論を変えていきました。
慶応二年(1866年)小倉口の戦いに激戦となった門司大里、幕府軍艦に彦島弟子待砲台は最前線の戦いを挑み奇兵隊の活躍を支援しました。
関門海峡に山地が落ち込む所に弟子待砲台は当時の姿を残しています。水雷突堤がすぐ近くに出来防波堤の代わりになったためでした。あまりの小ささに、長州砲の射程のない事を知りこんな砲台で四ヵ国艦隊に戦いを挑んだのか、無謀、力の違いを知りながら国難に望んだ人たちの志を感じました。弟子待の地名は佐々木小次郎の弟子がこの地で待った事からつきました。

