>女性自身 >「自覚があまりにも希薄」福島瑞穂氏 党大会で来賓から異例の苦言も … 前幹事長の “辺野古事故は基地のせい” 発言にまたも「ゼロ回答」の不誠実ぶり >女性自身によるストーリー・ >1日・
>「社民党を壊そうとする、あらゆる勢力と戦います!」
社民党は議論をすると壊れる政党ですかね。
>4月29日に都内で行われた社民党の党大会でこう述べたのは、党首の福島瑞穂氏(70)。
>憲法改正に抗う護憲派は国家権力からの「総攻撃」を受けているとし、福島氏は「社民党も例外ではない」と危機感をあらわにした。
>党大会には、立憲民主党の田名部匡代幹事長(56)、共産党の田村智子委員長(60)など野党幹部も来賓として出席し、「命を守る、暮らしを守る、この方向性は一致していると思います」(田名部氏)、「社民党が必要です!」(田村氏)などと共闘の意思を示した。
>いっぽう、同じく来賓として出席した全国労働組合連絡協議会(全労協)の渡辺洋議長からは、苦言が飛び出す異例の事態に。
>渡辺氏が問題視したのは、4月初旬の党首選で、敗れた対立候補の大椿裕子前参院議員(52)に発言の機会を与えなかった党の対応がSNSで問題視されたこと、そして、3月16日に沖縄・辺野古沖で船2隻が転覆し、平和学習中だった同志社国際高校(京都)の女子生徒と、船長の2人が死亡した事故をめぐる、社民党幹部の言動だった。
>「事故後の3月19日に国会前で行われたデモで、当時の社民党幹事長・服部良一氏(76)がスピーチを行いました。
>その際、服部氏は事故の犠牲者を悼みつつ、普天間基地の移設工事が長期化している現状と事故を結びつけ、『辺野古の新基地建設をいつまでも続けるのが悪い』『埋め立てるのが悪い。
>こんなことをしなければ事故は起きなかった』と発言。
みんな世間が悪いのよ。責任者は不在。兎角この世は無責任。
>SNSでは、事故の発生は学校側や船を運航していた市民団体の安全管理が問題であるとし、服部氏の発言には“他責ではないか”など批判が噴出しました」(政治部記者)
そうですね。
>渡辺氏は来賓の挨拶で、服部氏の発言を念頭に、「犠牲者への哀悼が述べられていたものの、事故は基地の存在が招いたと言わんばかりのものでした」とコメント。
>続けて、「たしかに基地の存在は危険だったかもしれない。
>しかし、であるならば、その危険な場所に子どもを連れて行った大人たちの判断の甘さこそ、問われなければならないのではないでしょうか」と訴えた。
そうですね。責任者に焦点が絞れないでいますね。
>さらに、「これはどう見ても海難事故であり、事故の責任はひとえにボートの運営主体にあります」と指摘し、「反基地運動がいかに正義であっても、その責任は軽減されてはならない。
>そうした自覚があまりにも希薄ではないかと思わざるを得ません」とも主張した。
そうですね。反基地運動の指導者に責任観念のないことは一目瞭然ですね。彼らに指導される人々は浮かばれませんね。
>会場では「そうだ!」「よく言った!」との声が上がるなか、渡辺氏は「御党の奮闘、再起に期待を申し上げます」と締めくくった。
責任観念の欠如はわが民族特有ですかね。この国が太平洋戦争でひっくり返った時にも責任者は出なかった。責任者が逃げ隠れするというよりも、元から不在ではないですかね。人々は責任観念なく行動している。
>共闘するパートナーから飛び出した厳しい意見。
>大椿氏は29日にFacebookで、渡辺氏の発言について《この重みを考えなければなりません》と綴った。
そうですね。日本人には深刻な反省がない。だから真面目人間になれない。
>いっぽう、党首の福島氏は辺野古事故をめぐる服部氏の発言に真摯に向き合っているかというと——。
>少なくとも近ごろの福島氏のは発言からは、そのような姿勢が垣間見えることはない。
>「福島氏は4月1日の会見で、デモにおける服部氏の発言について問われたものの、“コメントする立場にはない”としてすぐに回答を切り上げ。
そうですね。党首がコメントすると社民党が壊れるかもしれませんね。彼女には、その方が心配ですね。
>党首としての意見を求められても、“別にコメントする立場にありません”“詳細をあまり知りませんし、報道ベースでは分かっておりますが、議論をしたりしておりませんので、コメントは差し控えます”と詳細に語ることを避けました。
きっと党首は議論ができないのでしょうね。勉強不足なのかな。
>さらに22日の会見でも、“なぜ幹事長と話をしなかったのか、忙しかったからか”と尋ねられた際にも、福島氏は“特に理由はありません”と語るなど、服部氏の発言に真摯に向き合っているとは思えない対応を続けました」
ノーリーズン (理由なし) ですか。アンリーズナブル (理不尽) ではないですか。
>(前出・政治部記者)
日本人には責任がない。だから昔から責任者を名指しすることが難しかった。一旦事が起これば、責任者捜しのために騒ぎが起こる。日本残酷物語の様な騒ぎになることもある。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。
遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。
島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。
これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。
この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。
鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。
16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。
>遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)