息ができなくて、笑った。

 笑えば雅子の動きにほんの少しの間ができる。人の隙間から躊躇が生まれる音は甲高くて鈍い。

 雅子はぴくりと肩を震わせ、自分の反応に驚いたようにわたしの髪を掴んで引き上げた。後頭部がじきじきと痛み出す。

「なに、笑ってん、の」

 力が入ると雅子は言葉をまな板の上の大根のようにぶつ切りにする。濡れた前髪がおでこにひっつく不快さと、今朝ウォータープルーフのファンデを塗ってきた自分の判断の正しさがことのほかマッチして、顔面から滴り落ちる水滴とともに声を上げて笑った。

「きめえコイツ」

 雅子はわたしの頭を鷲掴みにし再び水中に突っ込んだ。苦しい。死ぬ。

 助けて。

 わたしがそう泣き言を漏らせば、雅子は優越感に沈みきった表情でぱっと手を離すのだろう。しょうがないなと言わんばかりに。

 でも、言わない。絶対言うもんか。わたしはわたしの意志でここにいて、この女と対峙しているのだ。コイツの望む言葉なんか吐いてやるもんか。

「はあ……あ……っ」

 でもやっぱり息は苦しくて、体は正直だ。後頭部を押さえる力が緩んだ瞬間、わたしは思い切り顔を上げて息を吸った。上唇から水滴が跳ねてバケツの中に戻っていった。全身で貪るように呼吸をする。雅子が何か言っているけれど耳に入ってこない。それどころじゃない。わたしの中に生が溢れていっぱいいっぱいなのだ。

 雅子は咳払いを一つしてわたしの前に回り込み、バケツを持ち上げた。同時に水圧がどっと顔にかかった。思わず首が後ろに倒れる。鼻が潰れたかと思った。

「早く消えろブス」

 無言で立ち去ればそれなりに格好はつくだろうに、雅子は残念な捨て台詞を吐いて逃げるように裏庭を出て行った。

 トイレの便器に顔を突っ込まれたり、集団でリンチされるよりは幾分かマシな気がした。雅子はいつだって一人きりでわたしを痛めつけた。その中途半端な手口と気概を、わたしはわたしで常に鼻で笑っていた。

 膝やスカートについた土を払い、立ち上がる。顔と肩まわりだけ濡れていて、下は湿ってもいないのがひどく気持ち悪かった。最低な気分を足元に転がる水色のバケツにぶつけた。蹴り上げたバケツは低空飛行で水飲み台にぶつかり、ガガコンと耳障りな音を立てた。

 帰る途中、ひまわり公園の砂場でひたすら泥団子を作っている少年を見かけた。ひまわり公園とは名ばかりで、夏になってもひまわりなどどこにも咲かない。この地区の公園にはすべて花の名前がついているが、名の通りの花が咲く場所は一つもなかった。

 少年は人気のなくなった公園で黙々と団子を作っては砂場の淵に並べていた。すでに半周くらい並べられていて、残りの半周を埋めるまで帰らないつもりなのだろうと推測できた。

 夏も終わり朝晩吹く風も涼しくなってきたし、日もかなり短くなった。そろそろ街灯がつく頃だ。暗い中、子供一人で遊んでいては色々と危ない。

 なんてことを考えながら公園を通り過ぎようとすると、ふいに少年が立ち上がってどこかへ走って行った。手に何か持っている。目で追うと少年は公衆トイレの中へ入って行き、三十秒くらい経ってからパンパンのビニール袋を両手で持ってそろりそろりと出てきた。どうやら水を入れたらしい。

 少年はゆっくり砂場へ戻ったかと思うと、袋の中の水を一気に下にぶちまけた。それからまた団子作りを再開した。ああなるほど、団子を作るのに水が足りなくなったのかと理解した。理解したことに満足して、暗い中遊ぶ少年の身の危険のことは気にならなくなった。少年を横目に、わたしは足早に家へと向かった。


 シチューの中のじゃがいもをスプーンで細かく刻む父、サラダから食べる母、麦茶を一気飲みするわたし。家族仲は悪くない。

「あったかいお茶のほうがいいんじゃない? お腹壊すよ、輪花」

「ん」

 母は口ではそう言うものの、甲斐甲斐しく温かいお茶を用意したりはしない。干渉の引き際がおそろしく上手い。わたしが小さくイラッとしたところで、線を引いたみたいにピタリと止める。行き場をなくした苛立ちは一息つく間に消える。

 反対に父は愚鈍で鬱陶しいときもあるが、うぜえ、と何の躊躇いもなく言えるので実際さほどうざったくもなかった。

 彼らに、わたしいじめられてんだよ、と言ったらどんな顔をするだろうか。容易に想像できるような、意外と複雑なことになりそうな。父と母の鼻のあたりを交互に見て、わたしはスプーンを手に取った。改めてシチューを見ると、確かにじゃがいもが大き過ぎる。わたしも父を真似てスプーンの先でじゃがいもを四つに刻んだ。

「輪花、お風呂いつ入る?」

「あとで」

「じゃあお母さん、先に入っていいね?」

「うん」

 夕食後、二階の自室に戻ろうと席を立ったところで母に呼び止められた。あとで、と言ったがもしかしたら入らないかもしれない。わたしは入浴が嫌いだった。髪を洗うのなんて冬場は三日に一回でいいし、お湯に浸かるのも息苦しくて苦手だ。

 でも今日は水を浴びた。多分あの水は水飲み場から汲んだものだろうから、そこまで汚いわけではない。けれど、顔に張りついた前髪の不快さを思い出して、昨日入浴したばかりだったが渋々入ることにする。

 ベッドに寝転がりスマホをいじる。ヤフーニュースをざっと見て、JRの人身事故の記事をタップする。中学生の女子が線路に飛び込んだらしい。寝返りを打ち、ページを閉じる。芸能人の不倫や妊娠出産、何とかさんのインスタにいいね殺到! などの記事は興味がないので開きもしない。

 写真のフォルダをタップした。普段から写真を撮る習慣がないので、それは一回スクロールしただけですぐに見つかった。

 スタバのなんちゃらフラペチーノを手に持ち、ウィンクして唇をうーと突き出した雅子と、その後ろで無難にピースを作り目を細めて笑うわたしが写っている。画像加工アプリのおかげで肌がやけに白くて綺麗だ。

 裏庭での雅子の引き攣った顔とうわずった声を思い出した。雅子はこういう中身のない頭の悪そうなちくわみたいな表情のほうが似合う。

 ちくわ。

 自分で表現しておいて、くつくつと可笑しさが込み上げてきた。ひっひっ、と引き笑いが出る。

「引き笑いはモテないんだよー」

 記憶の中の雅子は口をパカッと開けたままお腹を抱えて笑った。声が出ていなかった。

「そう言う雅子は無声音じゃん」

 わたしが言い返すと、雅子はますます大口を開けて笑い転げた。ときどき、カッ、と喉の奥が鳴った。

「うちら笑い方やべえコンビ」

 わたしの肩に雅子が倒れ込んできて無声音で笑うから、わたしも引き笑いで応戦した。ひっひっ、カッ、ひっひっひぃっ、カッ。

 何の腹の足しにもならない思い出だ。結局は意味のない言葉の羅列に少々の感傷、それだけだったのだ。わたしは一枚しかない雅子との写真をほんの少しの戸惑いと辛酸とともに消去した。



 こくりこくりと頭が揺れている。斜め前の男子はシャープペンを持ったまま居眠りをしていた。黒板を見るときに嫌でも首の座っていない赤ん坊のようにぐらつく彼の頭が目に入る。教師はこちらに背を向け黒板になめらかな手つきで数式を書いている。元から放任主義の数学教師は生徒が眠っていようと注意もしない。

 窓側の一番後ろの席は暖房もつかない今の季節、窓からの冷気で肌寒かった。日当たりも悪い北側の校舎だ。廊下側も寒い。わたしとはちょうど対角線上である廊下側の一番前の席に座る雅子の横顔を眺める。背中を丸め首を突き出した姿勢の悪い格好で、雅子は一心に数式をノートに書き写している。教師が一瞬顔を上げたタイミングで雅子も手を止め、ノートと黒板を見比べる。教師はまたさらさらと砂を振るように数式を書いていく。雅子も食らいつく。わたしは長ったらしい数式を書き写す気なんてとうに失せて、男子の揺れる頭越しに雅子を見ていた。

 真面目なんだろうなと思う。真面目だから許せなかったのだ。わたしのしたことを正さなきゃいけないと思ったのかもしれない。真面目さゆえの融通の利かなさ。雅子はノートに顔を近づけ睨めつけるように黒板の文字を写している。

 こちらに向き直り数式の説明を始めた教師の顔を、雅子はじっと見つめている。瞳が熱を帯びたみたいに潤んでいる。教師が雅子のほうに目を向けるとぱっと顔をそらす。雅子のほうって言うか廊下側の生徒たちのほう、だけど。しばらくそらしていた顔をそっと戻し、再び教師を上目遣いで見つめる。

 いじらしい雅子の仕草に苛立ちを覚えた。憐れにも思えた。そんな品を作って視線を送ったって、教師にはこれっぽっちも届いてないって。

 届くはずがないのに諦めず教師を見つめ続ける雅子の空気の読めなさに苛立っているのか、こんなに一生懸命な雅子の気持ちに気づかない教師の鈍感さに腹が立っているのか、途中でわからなくなった。斜め前の男子は人目も憚らず寝息を立てて眠ってしまった。

 数学の授業が終わり、昼休みになった。クラス中にざわめきが広がり、ギシギシと机同士をくっつける音があちこちから聞こえた。鞄からお弁当を取り出し蓋を開けて箸を持ったところで周りを見渡すと、女子の大陸が四つ、男子の大陸が三つほどできていた。どの大陸にも属さない孤島ももちろんある。男子の孤島は四つあり、わたしと雅子も孤島族だった。同じはみ出し者同士で仲良くしていただけだった。決裂したあとは元の孤島に戻ったわけだ。

 雅子はアルミホイルに包まれたおにぎりをちまちまと齧っていた。ここからは具までは見えない。もっと大きく頬張ればいいのに。焦ったくなるほど遠慮がちに小さく小さく縮こまって、雅子はおにぎりを食べていた。

 わたしはそんな食べ方はしない。友達と食べることを見越して作られた彩り豊かなキャラ弁を、たった一人で堪能する。母が作るお弁当はご飯の部分が必ず何かしらの動物になっていた。クマのおにぎり、ウサギの型がくり抜かれたのり弁、ヒヨコのオムライス。お弁当にも母にも罪はない。それを食べる人間のエゴで味気ないものになり下げるのは失礼だ。

 雅子はもうおにぎりを食べ終えたらしく、机に突っ伏して寝ていた。変化のない雅子を見ていても仕方ない。お弁当に集中する。人参グラッセが美味しかった。



 委員会選びほど失敗したと思ったことはない。まだ雅子と仲が良かった頃、一緒の委員会にしようという彼女の提案に二つ返事で了承したわたしがいた。今は各学年、各クラスの美化委員が集まる教室で頬杖をついて委員会をやり過ごそうとするわたしがいる。雅子と同じ空間、しかも至近距離にいるのは正直言ってかなり気まずい。

 雅子はわたしの隣にぎこちなく座り、不自然に前だけを見ている。こめかみのあたりが強張っている。

 委員会は先週の清掃時の反省点、気づいたことなどを各クラスごとに発表し、出た意見について話し合い、最後に今週の清掃担当場所を決める。委員会が終了後に担当場所を清掃して下校となる。

 発表はいつもわたしがしていた。雅子は固い表情で座ったまま一切口を開かないので、必然的にわたしが喋るしかない。もっともらしい意見を見繕って発表する。雅子はちらりともわたしを見ない。大きな目をいっぱいに開けてどこかを凝視している。

 清掃場所決めのくじもわたしが引いた。三階の女子トイレ二箇所。ため息が出そうになる。雅子は表情を変えず人形のように座っていた。

「三階のトイレ」

 解散になったタイミングで雅子に一応声をかける。頷きもせずに雅子は三階に向かって歩き出した。わたしも後を追う。

 雅子は用具箱から雑巾モップを取り出し、軽く濡らして床を拭き始めた。比較的楽なモップを取られてしまったので、わたしは汚物入れの中身をまとめビニール袋の中に押し込んだ。これが一番やりたくない。

 中腰になって作業をしていると、突然腰を蹴られた。汚物が周りに転がり散った。わたしは濡れたトイレの床に前のめりに倒れた。痛みよりも、転がった拍子に包みが剥がれて中身があらわになったナプキンの上に手をついてしまったことが気持ち悪くて、全身に鳥肌が立った。

 顔を上げると、雅子が泣き出しそうな表情でわたしを見下ろしていた。歪んだ口元が道路でのたうち回るミミズのようだった。雅子はわたしをいじめるたびに、こんな表情をする。多分厳密に言えば泣きたいわけではないだろうし、わたしに対して慈悲も何もないのだろうけれど、わたしには泣き出しそうな表情にしか見えないのだった。本当はこんなことしたくないけど、どうしてもやらなきゃいけないの。なんて言い出しそうな表情。

 今度は濡れたモップをお腹に押しつけられた。湿り気が服越しに伝わってきて寒気が走る。何度も何度も、雅子はわたしにモップを押し当てた。水を吸って黒く固まった埃がたくさんわたしの上に降ってきた。

 やめて。

 そう言ったら、雅子はすぐにやめるだろう。むしろ、そう言ってほしそうな感じさえ見受けられる。

 やめてって言え、ほら早く言えよ。

 雅子の心をわたしは見透かす。だからこそ、言わない。従わない。雅子の顔に焦りのような色が浮かぶ。知らない。手を出してきたなら最後までやれ。

 モップをわたしに投げ倒し、雅子はトイレから出て行った。わたしは起き上がり、床に散らばった汚物を拾い集めてビニール袋に放り込んだ。湿った制服からカビたような匂いがした。洗面所で念入りに手を洗う。手のひらに感じた他人のナプキンのじなっとした感触は、なかなか消えなかった。

 雅子が途中で投げ出して行ってしまったので、わたし一人で二箇所のトイレを掃除する羽目になった。気まずい思いをしながら掃除するよりはいくらかマシだったが、人手は欲しかった。帰路に着く頃には外は薄暗くなっていた。


 ひまわり公園では今日も少年が泥団子を作っていた。砂場の脇に立っているオレンジ色の街灯の灯りが少年を照らしていた。せっせと泥をこね、華奢なお尻を左右に振って体の向きを変え、砂場の淵に団子を置く。

 気がつけば公園に足を踏み入れていた。じゃり、と足元の小石が鳴る。

 近くで見ると、少年は思ったよりもずっと小柄だった。真緑のトレーナーは大き過ぎるのか、袖を何重にもまくっている。襟まわりもだらしなくよれている。

 目の前に見知らぬ女が立っているというのに、少年は顔を上げることもなく団子作りに夢中になっている。団子は売り物のようにつるんとしていた。凹凸がなくまんまるで、とても人間の、しかも子供が作ったようには見えなかった。職人だ、と心の中で呟く。

「ねえ、あんた」

 声をかけても少年はこちらを見ない。泥に乾いた砂を振りかけ形を整えながら、

「ぼくの名前はあんたじゃないよ」

 と言った。

「じゃあ、君」

「ぼくの名前は君じゃないよ」

「名前、なんて言うの」

「人に名前を訊くときはまず自分から名乗りなさいってお母さんに教わったよ」

 生意気なガキだ。

「わたしは輪花」

「ぼくは七斗」

 七斗は出来上がった団子を淵に置いたかと思うと、すぐに次の団子作りへ取りかかった。わたしに目を向ける気配もない。

「そんなに作ってどうするの?」

 七斗は答えない。

「団子作り、楽しい?」

「わかんない」

「どうしていっぱい作ってるの?」

「やっつけるため」

「何を?」

「悪い人」

「悪い人をやっつけるためなら、そんなに綺麗に作らなくてもよくない?」

「どうして?」

 わたしは言葉に詰まった。途轍もなくくだらないことを質問している気がした。七斗の純粋さにかすかな苛立ちを覚えた。

「わたしも一緒に作っていい?」

「うん、いいよ」

 断られるかと思ったのに、七斗は意外にもあっさり頷いた。だが、相変わらずわたしを見ないし、承諾したとは言えわたしが入る場所をあけようともしない。黙々と泥をこねている。

 七斗が砂場の真ん中を陣取っているので、わたしは隅っこにしゃがみ込んだ。泥はひんやりとしていて手のひらに心地よい重みを伝えた。さっき触ってしまったナプキンの感触が一瞬で上書きされた。わたしは気分がよくなって、意味もなく泥をペタペタと手のひらや甲に貼りつけた。ぎゅっと握ったり、泥の中に手を突っ込んだりした。制服をモップで汚されてからもうどうでもよくなった。スカートの裾に泥がついても構わなかった。わたしは七斗の隣で泥をいじり続けた。

 七斗はわたしが団子を作らないで泥で遊んでいるだけでも咎めはしなかった。自分の作業に熱中しているようだった。外はすっかり暗くなり、街灯の灯りだけを頼りにわたしたちは泥をこねた。

「帰らなくていいの?」

 訊ねると七斗は、

「うん。お母さんはまだ帰って来ないし、ぼくがいないほうがお姉ちゃんは勉強に集中できるから」

 と答えた。

「でももう暗いよ。お姉さん、心配するんじゃない?」

「いつももっと遅いから平気」

 七斗は一向に帰ろうとしない。わたしのほうが両親に心配されると思いながらも、関わったからには最後まで付き合ってやろうと、七斗が帰るまで一緒にいることに決めた。

 泥を一摘みして手のひらで転がす。七斗がやっていたように乾いた砂を振りかけて整えるも、彼のようにまんまるにはならない。

「ねえ、どうやったらそんなに綺麗な形になるの」

「手の上で転がすんだよ」

「転がしてる」

「じゃあできるよ」

「できないよ。凸凹しちゃう」

「知らない」

 七斗は天性の泥団子職人なのだと納得する。七斗の手元をよく観察すると、団子を丸めたあと親指の腹で余計な出っ張りを削ぎ落としていた。団子をころころ回しながら丁寧に撫でていく。なるほど、出来上がった団子はなめらかな球体になり、つややかに発光していた。

 やり方は理解したが、習得となるとまた別の話だ。自分がこんなに不器用だったとは思わなかった。親指に力を入れ過ぎると抉れてしまう。優しく優しく、撫でるだけでいいらしい。格闘しているうちに、七斗ほどではないが満足のいく形に仕上がった。

「見て」

 渾身の団子を七斗の前に差し出すと、彼は初めてこちらを振り向いた。

「うん」

 だが、返事はそっけないもので、わたしは拍子抜けしたのち不満が募った。七斗はすでに自分の作業に戻っている。初心者にしてはそこそこ綺麗な形の泥団子を、わたしは隙間なく並べられた団子の列の中にそっと置いた。七斗の作った大量の団子に見劣りしないくらい整った形なのに、吹きさらしの虚しさが胸を突いた。

 三つ目の団子を献上したところで、七斗が小さく「帰る」と言った。

「そう。もう遅いしね」

 わたしは手についた泥を落とした。七斗はすっと立ち上がり、今まで時間をかけて作った完璧な隊列をなす完璧な形の泥団子を足で踏みつけ壊し始めた。

「え、何で?」

 素っ頓狂な声が出た。七斗は踏みつけたあと、潰れた団子を砂場に返すように足で払いながら淵をまわる。

「何で壊しちゃうの?」

「今日はもう終わりだから」

 後片付けをしているつもりなのだろうか。次の人が遊びやすいように? 七斗にそんな甲斐性があるようには思えなかった。最後までわたしと目を合わせなかった彼なのだ。

 砂場は団子を作った形跡も見当たらないほど元通りになった。

「さようなら」

 金輪際会わないと決めた恋人同士の別れのような挨拶をして、七斗は駆けて行った。遠ざかって行く真緑のトレーナーはすぐに闇に溶けた。

 公園のトイレで手を洗いスマホを確認すると、三十分前に母からラインが一件入っていた。何時に帰るの、と心配しているような表情で汗を垂らした絵文字つき。今から帰ることを伝え、公園をあとにした。



 日曜日、家にいるのも暇だったので母のショッピングに付き合った。近所のイオンモールは家族連れで賑わっていた。夕方から一階の広場でヒーローショーがあるらしい。すれ違った五歳くらいの男の子の手に、特撮ヒーローらしきフィギュアが握られていた。

 レディースの売り場で服を物色する母の横を、スマホをいじりながらぶらぶら歩く。母は、色はいいけどデザインがねえ、とか、やだ高いわ、などと小言を漏らし、目ぼしい服があればすぐさまラックから取って自分の上半身に当てがった。

「ねえ輪花、ベージュと黒だったらどっちがいいと思う?」

「黒」

「んー、でも黒はたくさん持ってるしなあ」

「じゃあベージュ」

「でもベージュは膨張色だし」

「何でもいいじゃん」

 面倒くさくなり母のそばを離れた。母は十分痩せているのにやたらと着膨れを気にする。ベージュを着ても細く見えるから大丈夫だよ、とでも言ってあげればよかっただろうか。

 母は散々悩んだ挙句一着も買わないで店を出てきた。入口で待っていたわたしは、夕飯の食材を買うと言う母の後ろをまたぶらぶらとついて行った。

「何か欲しいのないの?」

「ジーパン」

「服はダメ。食べ物の話よ」

 自分は服を買う気満々だったくせに、わたしにははなから買ってくれる気はないらしい。さりげなくねだってみたがあっさり断られた。

「別に食べたいのない」

「そう、なら今夜はしゃぶしゃぶにしようかな」

「何でも」

 母は野菜コーナーで白菜を、肉コーナーで豚バラ肉をそれぞれカゴに入れた。

「輪花、ごまだれ持ってきて」

「ポン酢は?」

「ポン酢は家にある」

 ごまだれを探して店内をうろうろしていると、お菓子売り場で見知った顔を見つけた。

「七斗」

 呟いただけなので本人の耳には届いていないだろう。七斗は顔を顰めてチョコレートの棚の前から動かない。中腰で、一見したらトイレにでも行きたいのかと思うような格好だ。あまりにも真剣に棚を見ているので、声をかけるかどうか躊躇った。

 しばらく様子を観察していると、七斗はおもむろに手を伸ばし棚からコアラのマーチの箱を取った。パッケージをじっと見つめ、大事そうに両手で持って隣のコーナーに駆けて行った。棚の後ろから、

「お姉ちゃん、これにする」

 はしゃいだような声が聞こえてくる。自分が遅く帰ったほうがお姉ちゃんは勉強できるとかなんとか、七斗が言っていたのを思い出した。

「結局またコアラのマーチじゃん」

 その声に、肩が震えた。七斗の姉の顔を見てやろうと一歩踏み出した足が、それ以上動かなくなった。

「だって美味しいんだもん」

「一人で食べないで、あたしにもちょうだいよ」

「うん、いいよ」

「とか言って、どうせ一人で食うんだろ」

 雅子の声だった。情報処理が追いつかない。レジに並ぼうとする二人の後ろ姿が棚の奥に見えた。声も雅子、姿も雅子。ならばあれは雅子に違いなかった。

 二人は仲睦まじそうに寄り添いながら店を出て行った。七斗はしきりに雅子を見上げて話しかけていた。お姉ちゃんお姉ちゃん、と雅子の腰まわりに纏わりついていた。

 舌打ちをした。近くに人はおらず、チッという不快な音が空虚に消えていった。

 なんだよ。なんだよなんだよなんだよ。

 無性に腹が立った。七斗の無邪気な笑顔がムカつく。雅子の聖母のような高潔な笑顔がムカつく。お互いで暖をとるような、ぬくもりに溢れた二人の様子がムカつく。

 彼らは清らかな魂を余すことなく互いに注ぎ合っていた。一滴たりともこぼさず、互いのために魂を削り、互いの傷に手を当てているようだった。

 生ぬるい。わたしに見せつけるわけでも当てつけるわけでもなく、彼らはわたしには気づいていなかった。あれは彼らの日常なのだ。なんて生ぬるくて甘ったるい。わたしがかぶった水は、倒れたトイレの床は、もっと冷たかった。冷たくて無機質で、叫び出したくなるほど可笑しかった。今は全然、笑えない。



 もはや恒例となった委員会時の雅子による虐げだが、今日は理科室清掃だったためか程度は軽かった。理科室には実験器具などの備品がたくさんある。あまり激しいことをすると誤って壊してしまう危険性がある。そのへんは雅子も心得ているようで、先週のトイレ清掃時のようにわたしを床に倒したりモップを投げつけるようなことはしなかった。が、ちりとりに集めた埃をわたしの頭上にぶちまけたり、丸椅子をわざとわたしの体にぶつけてきたりした。

 丸椅子はわたしの腰骨に当たった。じんと痛んだが、埃をかぶせられるのほうが地味に嫌だった。髪に絡まったぽわぽわとした埃は指ですけばすぐに取れたが、細かい塵は頭を振っても完全に取れた気がしなかった。鼻から吸い込んでしまい盛大に咳き込んだ。

 一通りわたしに嫌がらせをし終わると、雅子は一足先に理科室を去った。わたしは床に散った埃を集め直し、机に上がったままの丸椅子を一つ一つ下ろした。

 雅子はいつも逃げるようにわたしの前から去って行く。仕返しが怖いのだろうか。それとも罪悪感が少しでもあるのか。前者ならばわたしは雅子をひどく軽蔑するし、後者ならば罪悪感など抱かなくていいのにと思う。雅子にはわたしをいじめる唯一にして無二の理由がある。


 教師を好きになっちゃうバカな女っているよね。

 ブスのくせに一生懸命媚び売ってるの、可哀想で見てらんない。


 自分が以前口にした苦味の強い言葉が鼓膜に蘇る。わたしはその言葉を得意げに言ってみせた。わたしと話していた数人の女子たちは一斉にキャハハと下卑た笑い声を上げたが、遠くからわたしを見つめる雅子の目は一ミリも笑っていなかった。怒りと哀しみが同時に押し寄せたような仄暗い瞳でわたしを見ていた。

 取り繕うことをしなかったのは、そのときにはもう手遅れだったからに他ならない。まあ個人の自由だけど、くらいは言ったかもしれない。けれど、そんな言葉は雅子の心に響くはずもなかった。雅子は明らかに傷ついた顔をしていた。その顔を見て、わたしは自分が吐いたセリフの残酷さに気づいたのだった。


 ひまわり公園に七斗はいた。今日も粛々と泥団子作りに勤しんでいる。小さく丸まった背中だとか、もう肌寒いのに半ズボンを履いている姿だとか、二つ並んだ形のいい膝小僧だとか、街灯の灯りに照らされた白い頬だとか。わたしは愛おしいものを見つめるように短いため息を吐いた。胸の中にはマンモスみたいな巨大な生き物が獰猛に息づいていて、こんなガキ踏み潰しちまえよさあ早く粉々にしてくれよ、と明後日の方向にいるわたしが命令している。

「七斗」

 声をかける。七斗はわたしを見ないまま、うん、と言った。姉には、雅子にはこびりつくような笑顔を向けていたくせに。頬を引っ掴んで無理矢理こっちを向かせたい衝動に駆られた。

「団子、今日も作ってるんだ」

 でもわたしはそんなことしないけれど。暴力的なのは好きじゃない。言葉の暴力は易々と吐き散らすのに。その刃で友人を傷つけたというのに。

 七斗は答えない。答えなくていい問いかけだと思っているのか。親指を細かく動かし、余分な砂や出っ張りを払い落としていく。

「ねえ、この間の日曜日、七斗のこと見たよ。イオンの食品売り場にいたでしょ」

「うん」

「お姉さんと一緒だったね」

「うん」

「お姉さんって、どんな人?」

 わたしは砂場の淵を挟んで七斗と向かい合うようにしゃがみ込んだ。作りかけの団子を右手に持ち、七斗がゆっくりと顔を上げた。

「お姉ちゃんはね、優しいよ」

「どんなところが?」

「ぼくが眠くなるまで一緒に遊んでくれるところ」

「一緒に寝てるの?」

「うん」

「そうなんだ。あとは?」

「あとはね、お母さんの代わりにご飯を作ってくれる」

「お母さん、お仕事忙しいの?」

「うん」

「お父さんは?」

「いない」

「七斗とお姉さんとお母さんの三人暮らし?」

「うん」

「七斗はお姉さんのことが大好きなんだね」

「うん、好きだよ」

「お姉さんはとってもいい人なんだね」

「うん。お姉ちゃんおっかないときもあるけどね、優しいんだよ」

「そっか」

「お姉ちゃんはいつもぼくに優しくしてくれるから、お返しにぼくがお姉ちゃんを守ってあげるんだ。この玉は悪い人からお姉ちゃんを守るために作ってるんだよ」

 姉の話を振ると、七斗はよく喋った。図らずとも七斗が泥団子を作り続けている理由が明らかになった。七斗は小学校の高学年くらいだろうが、言動や喋り方が幼い気がした。姉に甘やかされて育ったせいか。変にスレていないというか、幼児のまま成長できていないというか。これだけ饒舌に喋っていても、一度も目が合わない。七斗の瞳は万華鏡のように何を映しているのかわからない。澄んだ色をしているがどこか空洞な気がして、そこはかとない恐怖を感じる。水槽の中の魚みたいだ。

「わたしも作っていい?」

「いいよ」

 わたしは砂場の中に入り、七斗と並んで泥団子を作り始めた。この間よりも上達している感覚があった。七斗とともに、彼の姉を悪い人から守るために「玉」を作る。雅子はこのことを知っているのだろうか。わたしも一緒に作ったのだと言えば、あんたを守るための玉をわたしも一緒に作ったのだと言えば、雅子はどんな顔をするだろう。どれが自分の弟が作った玉なのか、見分けがつくのだろうか。

 わたしの作った玉を潰そうとして、誤って七斗が一生懸命作った玉を踏みつけたりしないだろうか。七斗は、お姉ちゃん酷い、と泣き喚き、雅子は顔面蒼白になる。それをわたしは間近で見ている。ほくそ笑みながら見ている。

 気づくと、一つの玉を極限までつるつるに磨き上げていた。無心になって親指を動かしていたらしい。七斗の作る玉との違いがわからないほど完璧な球体だった。

「これ、すごくない?」

 七斗に見せるも、彼は一瞥して「うん」と言っただけで、わたしが望んだ反応は見せなかった。それでも嬉しくて、しばらく玉を手の中で転がしていた。

 七時になると七斗は急に立ち上がり、以前のように淵に並べた玉を踏み潰し始めた。悪い人が現れなかった、今日も姉を守ることができたという彼なりの儀式なのかもしれなかった。わたしは砂場から出て、無表情に玉を踏みつける七斗の様子を眺めていた。

「さようなら」

 七斗が公園を出て行く。もう二度と会えないみたいな言い方だけれど、これが七斗の通常の挨拶なのだった。どうせ毎日彼はここに来て玉を作るのだ。

 わたしもトイレで手を洗い、帰路についた。母には学校を出るときに遅くなると連絡をしておいたから、何のメッセージもきていなかった。代わりに父から、今日帰るがお土産は何がいいかとのラインがきていた。そう言えば父は今、仙台に出張している。笹かまぼこ? の問いに、やだわ、と声が出る。牛タン、とだけ返すと、すぐに既読がついて、ずんだ餅は? とくる。いらない。牛タンだけでいいの? うん。了解!

 父の帰りは深夜になるだろうから、牛タンは明日だ。



 雅子ちゃーん、と間伸びした声がして、思わずわたしまで振り返ってしまった。教室の喧騒は止むことなく、目の端で雅子が小さく肩を震わせたのが見えた。

 以前から、雅子は中野のグループに目をつけられていた。小柄で化粧が薄い中野は、一見するとグループをまとめる力などなさそうだが、ずる賢さでクラスのヒエラルキーのてっぺんにのし上がってきたなかなかの曲者だった。連れている女子たちも決してダサくない。誰がリーダーになってもおかしくない見た目と狡猾さがある。

 雅子みたいな取り柄のない痩せた子羊のように貧相な女子なんて、放っておけばいいのにと思う。その賢さをもっと他に使えよ。わたしは心底憐れんで中野たちを見つめる。雅子を連れて教室を出て行くところだった。

 昼休みがあと十五分で終わる。わたしは捕らえられた宇宙人のように身を縮こませて中野たちについて行った雅子を探すため、教室を出た。

 三階の南校舎と北校舎の境目のところに彼女らはいた。柱の影にそっと身を隠す。人通りはまばらだが、誰も通らないわけでもない。ある意味堂々と、中野たち四人は雅子を囲んでいる。

「雅子ちゃーん、あんたまた数学の安西にラブビーム飛ばしてたっしょ」

「言い方」

「マジウケんだけど」

「やめな? 虚しいだけじゃん」

 雅子はぶるぶると震えて、両の拳を握りしめている。やるのか、雅子。中野たちにお見舞いするのか。でも雅子は、それだけだ。言われっぱなし。

 わたしはかつて自分も雅子の恋心を笑ったくせに、中野たちに対して、お前らにはカンケーないだろ、と叫びたくなっていた。あのときもそう、中野たちに急に話を振られて、何か面白いことを言わなきゃ、こいつらを笑わせなきゃ、という奇妙な強迫観念に襲われた結果だった。決して本心で雅子の恋心を笑ったわけではなかった。今さら言い訳してもどこにも誰にも届かないけれど。雅子を傷つけ雅子を失い、雅子に恨まれいじめられるようになったことがすべてなのだから。

「雅子ちゃーん、知ってる? 安西、彼女いるんだよ」

「うっわ、不毛な恋やん」

「ハードルえぐいわ」

 それはわたしも知らなかった。数学の安西は確かに目鼻立ちは整っているが、もうオジサンの域だ。独身らしいと噂されていたけれど、恋人はいたのか。雅子の表情は横髪に隠れてここからは見えない。

「知ってたの?」

「え、マジ?」

「知っててまだ好きなの? あり得ねー」

「逆にソンケー」

 雅子の反応を見た中野たちが口々に言った。

「すごいね、雅子ちゃーん。もう告んなよ。応援する」

「奪っちゃえって。あんたならできる!」

 何を無責任な。怒りを感じて一歩踏み出した。けれど、足を床に置いた瞬間、何に怒っているのかわからなくなった。出て行くタイミングを見計らっていただけかもしれない。堪忍袋の尾が切れたと言わんばかりの勢いで踏み出したはいいが、引っ込みがつかなくなってわたしはそのまま彼女らのほうへ歩いて行った。

 雅子が先に気づき、泣きそうな顔をわたしに向けた。助けて。雅子の悲痛な声が聞こえてくるようだった。中野たちがほぼ同時にこちらを向いた。わたしは何事もなかったかのように彼女らの横を通り過ぎた。後頭部に雅子の縋るような視線を感じた。感じただけで、実際はわたしのことなんて目で追っていないかもしれない。そうであったらいいのにというわたしの願望かもしれなかった。

 階段を降りて、教室へ戻った。ただ二階と三階をぐるっと回ってきただけだった。あと五分で昼休み終了のチャイムが鳴る。



 委員会のない今日は、ひまわり公園を覗いても七斗の姿はまだなかった。いつも薄暗くなってから公園に来るらしい。七斗よりも先に玉を作るのも憚られるので、砂場とは対極の藪近くにあるブランコで時間を潰すことにした。

 ブランコなんて何年ぶりに乗っただろう。前後に揺れるだけの単純な乗り物を他の子供と取り合い、泣かせ泣かされ、たかだか三十秒ほどの持ち時間のために列を作った。幼稚園か小学校低学年の頃の記憶だ。子供は何でブランコが好きなのだろう。高校生になった今や魅力が感じられない。

 七斗もブランコには目もくれない。砂場を独占していつまでも玉をこねている。けれどそれは、姉を悪い人から守るためという名目があってのことだ。それがなければ、七斗も他の子供と同じようにブランコや鉄棒やシーソーなどに興味を示すのだろうか。

 ブランコに乗り爪先を地面につけてゆらゆら揺れていると、トイレから七斗が出てきて砂場のほうへ歩いて行くのが見えた。ビニール袋いっぱいに水を入れて、重そうに運んでいる。いつの間に公園に来たのだろう。わたしはブランコから降りて、七斗の元へ向かった。

「なーなとっ」

 おどけたように声をかけると、七斗はちらりとわたしを見上げて、うん、と言った。反応は薄いが、こちらを見ただけ進歩だ。

 七斗は水に浸って黒くなった砂にさらさらの砂を少しずつ混ぜていく。そうやって玉を作るのに最適な硬さを模索するのだ。彼の手から生み出される玉は、今日も美しい。

「七斗はさ、玉職人になればいいと思う」

「なあに、それ」

「玉を作る人だよ。売り物になるよ、これ」

「ならないよ」

「でもすごく綺麗だよ。プロっぽい」

「お姉ちゃんを守れればそれでいい」

 そんな台詞、わたしも言われてみたい。いつか彼氏ができて、君を守れればそれでいい、なんて言われたら間違いなく惚れてしまうだろう。と考えて、寒気がした。純真な少年が純粋に姉を思って言うから価値があるのであって、下心丸出しの男がカッコつけて言うのには何の価値も喜びもない。わたしは雅子が羨ましくなった。

 例えば、こんな事実を七斗に突きつけたらどうだろう。大好きな姉が、誰かに意地悪していたら。悪い人から姉を守りたいと思っているのに、その姉が誰かにとっての悪い人だったとしたら。

 わたしの胸の中でむくむくと出来心が育っていった。雪だるま式に、周辺にある善意だとかお節介だとか悪意だとか滑稽さだとかをくっつけて、もりもりと膨れ上がっていった。

「ねえ、七斗」

 七斗は返事をしない。構わず続ける。

「わたしね、七斗のお姉ちゃんと同じクラスなんだよ」

「えっ、本当?」

「うん。雅子って名前でしょ」

「じゃあ、お姉ちゃんの友達?」

「違うよ。わたしはね、七斗のお姉ちゃんにいじめられてるんだよ」

 隣で七斗の手が止まる気配がした。横を見ると、七斗がわたしの顔を凝視している。目を見ているというよりは、少しずれて鼻の頭を見ているような目の寄り方だった。

 黒いビー玉が埋まったような七斗の瞳。表情からは感情が読み取れない。喋らない七斗に、わたしはもう一度ゆっくりと真実を吐いた。

「わたし、雅子にいじめられてるの。本当だよ」

 七斗の瞳が揺れた。

「嘘だ」

「嘘じゃないよ」

「嘘だ」

「本当だって」

「嘘だ」

「バケツの水に顔を突っ込まれたり、トイレの床に転ばされたり、埃を頭の上に被せられたりしたよ」

「嘘だ」

「本当だよ。全部雅子にやられたの」

「嘘だ」

「信じたくないよね。大好きなお姉ちゃんだもんね。でも本当」

「嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!」

 同じことしか言えないオウムのように、七斗は繰り返し叫んだ。泥だらけの両の手を胸の前でぎゅっと握り、何かに抵抗するように固く振った。強く閉じた目からは涙が溢れていた。柔らかな曲線を描いて七斗の頬を滑り落ちた。

 七斗は突然立ち上がり、首を振りながら公園を飛び出して行った。暗くなりきらないうちの出来事だったので、歩道を走り去る七斗の姿がいつまでも薄ぼんやりと見えていた。

 言わなきゃよかった、とは思わなかった。七斗の激しい反応を目の当たりにしてもなお、真実を突きつけたことは間違いではないと思えた。七斗は今日のことを雅子に話すのだろうか。明日は委員会がある。来るなら、来い。

 綺麗に砂場の淵に並んだ玉を、七斗の代わりに一つずつ踏み潰した。玉は案外あっさり崩れた。人の作ったものを壊すのは気力がいるのだと知った。魂を込めて、こちらも挑まなくてはならない。七斗の作った美しい玉は、わたしの足によって粉々のただの砂になり下がった。



 透明な窓は透明さゆえに浮ついたわたしの顔を半透明に映した。手の届く範囲を布巾で拭くと、キュッキュッと小気味いい音がした。暮れなずむ空にわたしがいる。焦点を合わせると束の間消える。ぼんやり見るとまた現れる。

 今日の委員会は校舎の窓拭き強化だとかで、全クラスの委員たちが一斉に窓という窓を拭いていくことになった。一日だけでは終わりそうもないので今日から三週に渡って行われるらしい。

 北校舎にあるパソコン室の外側の窓を拭くことになったとき、わたしは覚悟した。そこは人目につかない場所だった。少し離れたところで布巾を搾る雅子を盗み見る。表情はよく見えない。黙々と搾っている様子が玉を作る七斗と重なった。

 その汚れた水を、わたしにぶちまけるのか。それとも濡れた布巾を顔面に押し当てるのか。

 制服が汚れるほど、体に痕が残るほど、わたしを虐げてほしいと思った。別にわたしはMじゃない。ただ覚悟を決めているだけだ。

 果たして、雅子はバケツを両手で持ち近づいてきたと思いきや、わたしの頭上に盛大に汚水をぶちまけた。白いシャツの上をどす黒い染みが広がっていく。さらに雅子は空になったバケツをわたしの顔めがけて投げつけた。咄嗟に横を向いたせいで、バケツはわたしのこめかみに当たった。痛みが走ったが、血が出ている様子はない。顔面で受け止めて鼻血でも出ればよかったのに、と心の中で舌打ちをする。

 いつもは後始末をして最後まで掃除をして帰るのだが、今日はすべて放り出してひまわり公園へ向かった。足がよく回る。びしょ濡れになった制服は気持ち悪くて最高に爽快だった。

 七斗は、いた。昨日泣きながら公園を飛び出したとは思えないほど、普段通りに淡々と泥をこねている。わたしは大股で七斗の元まで歩いて行き、わざとざっと音を立てて立ち止まった。

「見て。あんたのお姉ちゃんにやられたんだよ」

 両手を広げ、制服の染みを見せつける。だが、七斗は頑なに顔を上げようとしない。目を瞑って歯を食いしばっている。

「ほら七斗、見てよ。これあんたのお姉ちゃんがやったの。わたしに汚い水をかけたの」

 七斗はぶんぶんと頭を振った。歯がカチカチと鳴った。わたしは七斗に一歩近づいて、長い髪の毛を搾った。滴るほどではないが数滴、水が七斗の手の甲に落ちた。

「頭の上からかけられたんだよ」

 七斗は急いで立ち上がろうとした。足が滑り、弾みで尻餅をついた。油の中でもがく蟻のように手足をバタつかせ、七斗は必死に立って逃げようとした。逃さない。わたしは七斗の腕を掴んだ。折れそうに細い腕だった。でも強く握る。

「あんたのお姉ちゃんはねえ、いっつも途中で掃除やめてわたしをいじめてくんだよ! 毎回毎回汚ねえ水とか埃とかモップとか! 押しつけてくんだよ! あんたの前では優しいお姉ちゃんかもしれないけど、わたしには酷いことしてんだよ! ちゃんと見ろ!」

 七斗の腕をぐいっと引いた。七斗の体を強制的にわたしのほうへ向かせる。七斗は過呼吸でも起こしそうなくらい浅く息を吐いていた。顔も引き攣っている。

「でもわたしはやり返さないの! 同じフィールドに立ちたくないからとかじゃなくて、わたしには覚悟があるから!」

 七斗の目からは涙が溢れている。瞳孔が開いて自動的に流れているようだった。

「友達だったのに。昔は仲が良かったのに。一度壊れたものは二度と元には戻らないんだよ! だから、わたしは」

 ドン、とお腹に衝撃が走った。七斗が空いているほうの手でわたしを殴ったのだ。七斗の顔には時が止まったようなさっきの表情とは真逆の、煮えたぎる怒りが滲んでいた。

「お前だったんだ!」

 七斗が叫んだ。耳がキン、と鳴った。

「お前がお姉ちゃんをっ、傷つけたんだ!」

 七斗は甲高い声で叫び、思い切り腕を振り抜いた。わたしはその拍子によろめいて、砂場に片手をついた。すかさず七斗がわたしを押し倒した。頼りない体つきなのに、その力は強かった。

 七斗は砂場の淵に並べてあった玉を手に取り、わたしに投げつけた。一つ目は外れ、二つ目はわたしの右肩に当たった。七斗は次々に玉を投げつけてくる。お腹や腕に当たり、わたしはすぐに泥まみれになった。

「お前がっ、お前がっ! 悪いやつだったんだ!」

 七斗が叫ぶたびにわたしの鼓膜は破れそうに震えた。

「お姉ちゃんは友達だと思ってた人に裏切られたんだ! お前のことだったんだ!」

 顔面に玉が当たったとき、わたしはああ、と悟った。これがわたしの罪に対する報いなのだ。雅子を傷つけた罪、雅子を裏切った罪、雅子と向き合おうとしなかった罪。

 雅子とは二年になって初めて同じクラスになった。お互い人見知りで、グループが見る間に出来上がっていくのをぼんやりと眺めていた。

 クラスで浮いてしまった者同士、くっつくのは早かった。どちらからともなくいつの間にか横にいるようになり、お互いの顔を見て示し合わせたように笑みをこぼした。多少の焦りとぎこちなさを含んだ、とびきりの笑顔だった。わたしもきっと同じ顔をしていただろう。

 同じ委員会にしようよ、と言ったのは雅子だった。うちら部活入ってないしさ。委員会でもやっとかないと内申点やばそうじゃん?

 わたしは大して進路のことは気にしておらず内申のことなんてそれまで意識にものぼらなかったが、雅子と一緒なら委員会も楽しいかもしれないと思い、いいね、と言った。

 楽そうな委員会はどれも競争率が高くて、話し合いとくじ引きであぶれてしまった。一番やりたくないねと話していた美化委員に決まったときは二人して、最悪、委員会やろうって言ったの雅子じゃん、いやでも美化委員だけは正直やりたくなかった、うちらくじ運悪過ぎ、などと言って苦笑いをした。

 夏休みが一週間後に迫った金曜、わたしと雅子は休み中の計画を立てていた。ノートにしたいことリストを作り、これはできそう、これは無理っしょ、でもやりたいじゃん、やっちゃう? なんて話しながらペンを走らせていた。

 昼休み終了間際、雅子がトイレに立った。一人になったわたしはノートを鞄にしまい、次の授業の教科書を出した。

 後ろから、麻倉さーん、と間伸びした声がして振り向くと、中野のグループが近づいてきた。麻倉さんって雅子ちゃんと仲良いよねー、雅子ってぶっちゃけどう? ちょっとウザくない? 私一年のとき同クラだったんだけどー、数学の安西いるじゃん? 雅子ちゃんあいつのこと好きらしいのねー、数学のたびに熱視線送っちゃってさー、キモくない? 麻倉さん知ってた? そういうのどう思う?

 話しかけてきていきなりわたしの友達の悪口を言う。わたしは気圧されてしまった。

 そんなこと、とっくに知っていた。直接聞いたことはなかったが、雅子の視線の先を見ればそこに誰がいるのかなんてことはすぐにわかった。

 別にいいじゃん、誰を好きでいようと。

 そう言えたらよかった。けれど、このときのわたしは言葉の選択を致命的に誤った。わたしの頭上で次から次へと言葉を投げかけてくる中野たちはまるで無機質なピッチングマシンのようで恐ろしかった。

 教師を好きになっちゃうバカな女っているよね。

 気づけば、そう口走っていた。中野たちの目が途端に輝きだす。だよねー、てか雅子って普通にブスやん? あの顔で色目使ってんのウケるよな。四人が同意を求めるように一斉にわたしを見る。

 雅子がそこにいるのはわかっていた。トイレから戻ってきてさっきのわたしの言葉を聞きフリーズしている。わかっていたのに、止められなかった。中野たちが見ているから。いや、それだけではなかったような気がする。ごく微量だがわたしの中にある、雅子に対する優越感のようなものが口をついて出てきたのだ。

 ブスのくせに一生懸命媚び売ってるの、可哀想で見てらんない。

 わたしの言葉に中野たちは笑い声を上げた。ウケる、麻倉さん結構言うねー、やっぱそう思うよね。

 予鈴が鳴ったのを皮切りに、中野たちは興味を失ったようにそれぞれの席へ戻って行った。雅子が自席に戻るのが見えた。表情は横髪で見えなかった。

 以来、雅子はパタリとわたしに話しかけてこなくなった。わたしが話しかけようとしても露骨に避けた。当たり前だ。あんな酷いことを言ってしまったのだから。弁解の余地もなかった。

 それでもやはり、雅子とは一度話をするべきだった。言い訳がましくなってしまうとしても、雅子にはわたしの気持ちを伝えるべきだった。だが、何も言えないままずるずると夏休みに入った。雅子とのしたいことリストは一つも叶わなかった。

 夏休み明けから、雅子の態度は露骨を極めていった。最初はすれ違い様に肩をぶつけてくる程度だったが、次第に足を引っ掛けたり、モップで叩いたり、水をぶっかけてくるようになった。

 わたしはそのたびに耐えた。わたしが雅子を傷つけたから、これは雅子の痛みなのだと。だから、わたしは耐えなければならない。そう思っていた。


 七斗が投げつけた玉が顔面に当たり、口の中にじゃりじゃりした砂が入った。わたしは唾を吐き、口の中の砂を取り除こうとした。間髪入れずに七斗がまた玉を投げてくる。わたしが雅子の暴力に耐え忍ばなくても、いずれこうして七斗に泥団子をぶつけられていたのだとしたら。わたしの今までの我慢は水の泡ということか。しなくてもいい我慢だったということか。

 途端、何もかも面倒になった。今この状況が煩わしくて仕方ない。七斗が玉を投げる。わたしは素早く立ち上がって、それを避けた。

 砂場の淵に並んだ玉を一つ手に取り、七斗に向かって投げつける。反撃されるとは思っていなかったのか、七斗は動揺したように一瞬動きが止まった。わたしが投げた玉は七斗の顔面に直撃した。

 七斗は火がついたように泣き出した。地団駄を踏みながら悶えている。目を押さえているから、砂が入ったのかもしれない。わあわあ喚く七斗を、わたしは冷めた目で見ていた。

「何やってんだよてめえ!」

 突然、後ろから怒鳴り声がした。驚いて振り返ると、雅子がわたしを睨みながら立っていた。眉間がVの字に盛り上がっている。

「ふざけんなよ!」

 雅子はこちらに駆け寄ってきたかと思うと、わたしを突き飛ばし、七斗を抱きしめた。わたしはまたも砂場に倒れ込んだ。

 雅子は七斗の頭を撫で、目に入ったの? 擦っちゃだめだよ、と優しく言った。母性のようものが垣間見えた気がして、わたしは鳥肌が立った。雅子と七斗の、姉と弟の関係に嫉妬した。どうしてこんな気持ちになるのかはわからなかった。ひどく気分が悪かった。

 雅子は弟の前だからか、委員会のときのように手を出してこない。わたしをキッと睨んだまま、泣きじゃくる七斗の肩を抱いている。

 何で、何もしてこないの。暴力を振るう姿を弟に見せたくないの。お前の暴力はそんなしみったれた精神のもとでふるわれていたの。そう言えば、こいつはずっと人気のないところでわたしをいじめていたな。

 七斗を庇いながら一向に何もしてくる気配のない雅子に、わたしは苛立った。雅子の目には憎しみが浮かんでいた。純粋な、憎しみ。憐れみとか優越感とか、そういう蔑んだ感情は見られない。ただひたすらに憎い相手を瞳に映しているだけだった。

 わたしは服や皮膚についた砂を払うことなく立ち上がり、叫んだ。

「オメエらくそ弱えんだよ!」

 七斗が肩を震わせた。雅子もわずかに驚いた表情を見せた。

「こっちは泥の中で無様にもがくつもりでいんだからオメエらも中途半端なことしてんじゃねえよ!」

 叫んだらあとからあとから言葉が出てきた。感情が一人でに喋っているみたいだ。

 雅子と七斗は呆気に取られたような表情でわたしを見ていた。ぽかんと開いた口がそっくりだった。その類似がムカつく。

 わたしが叫んでいる限りは、二人はその表情でいるだろう。七斗に向かって、それから雅子に向かって、わたしは感情を吐き出し続けた。

 七斗の涙は止み、頬についた砂のせいで轍がくっきりと浮かんでいた。反対に雅子の目からは涙が流れていた。何を思ってこいつは泣いているのだろう。わたしの荒れ狂った姿を見て怖気づいたのだろうか。そんな理由だったら心底幻滅する。

 喉が枯れてきて声が不自然にひっくり返ったりしながらもわたしは、全部受け止めてやるから全力で向かってこいよマジでふざけんなよほらどうしたいつもみたいにかかってこいよビビってんじゃねえよ! とヤンキーさながらの口調で喚き散らした。

 この茶番が終わったら雅子ともう一度友達に戻れるだろうか。

 そう考えている自分が心の中の意外にも広いスペースを陣取っていることに気づき、滑稽で痛々しくてあさましくて、ちょっと可愛くて、笑えた。