【つづき】


 ひどい悪夢を見た。
あのひとが女をナイフでずたずたに引き裂いて、死に絶えた彼女を犯す夢。わたしは始終、その様子を斜め上から見ていた。よく見ると、女はわたしだった。あのひとはわたしの体を自由に操縦していた。
 あのひとの狂気がわたしの中に充満していた。あのひとはボロきれのように横たわったわたしを、やさしくやさしく抱き寄せた。目がひときわ輝いていて、ミラーボールのようだった。
 背中が汗でびしょ濡れだった。時計を見ると、まだ朝の五時だった。もう一度寝ようとしたが、背中が気持ち悪くて眠れない。胸元にも汗をかいていた。
 起きて、シャワーを浴びる。夢の中であのひとに抱かれた感触も水とともにすべて流れていくようだった。わたしは足元の排水溝をじっと見つめた。そこにわたしから剥がれ落ちた赤茶けた錆が溜まっていくような気がして。
 洗面所で髪を乾かす。ドライヤーの温風になびく髪の毛の合間から、自分の顔が覗く。身震いをした。わたしは穏やかな笑みを浮かべていた。喜びを噛みしめるような、口元が自然と綻んでしまうような、そんな表情。
 あの夢は悪夢ではなかった。これ以上ないほど、わたしは幸せに満ち満ちていた。わたしの死体を弄ぶあのひと。カラスともハイエナとも違う、柔らかさに溢れた顔をして、わたしの機能しなくなった陰部に自分の性器を押し当てていた。
 夢であってもいい。わたしが覚えている限り、それは永遠にわたしのものだ。わたしの体験だ。
 ドライヤーを止めて、喜びに震える肩を抱いた。鳥肌が立っていた。わたしはどこかおかしいのだろうか。壊れているのだろうか。それでもいい。あのひとがわたしに触れたのだから、もう何だっていい。
 
 簡易な朝食を済ませ、九時にホテルをチェックアウトした。これから人生初のヒッチハイクという大仕事が待っている。旅ノートには、「国道沿いのガソリンスタンド、稚内行きのトラック」と書いてあった。どうしてガソリンスタンドなのだろうと疑問に思ったが、ネットで調べてみると、車が絶対停まるし、これから遠くに行こうとする人も多いため、そこで待つのは定番であると書いてあった。さらに国道沿いというのもポイントらしく、車通りが多いだけに成功確率も上がるのだとか。
 地図アプリで国道沿いのガソリンスタンドを調べ、バスで近くまで移動した。コンビニに寄ってミネラルウォーターを買い、軒先で持って来たスケッチブックにマジックペンで「稚内まで」と大きく太く書いた。
 信号を渡り、ガソリンスタンドの手前にスケッチブックを掲げて立つ。ちょうど車が減速して入って来るあたりだ。最初は何気なく立っていたが、次第にドキドキと心臓が打ってきた。本当にこれで稚内までいけるのだろうか。親切な車に出会えるだろうか。
 あのひともおそらくヒッチハイクは初めてだったはずだ。ネットに疎いあのひとがどうやってヒッチハイクの情報を集めたのか気になった。何せ、携帯不携帯と揶揄されるほど携帯を見ない人で有名だったのだ。パソコンもあまり使わない、レポートも手書きという、超がつくほどのアナログ人間だった。ネットの情報は怪しいから信用しない、とも言っていた。会っていなかった十年で、その性質が変わるとも思えない。
 開始して二十分が過ぎた。今のところ、一台も停まっていない。わたしには目もくれず、横を素通りしていく車ばかりだ。そう簡単にはいかないだろうと思ってはいたが、四五分を過ぎたあたりから気落ちしてきた。
 スケッチブックの持ち方が悪いのだろうか、もっと目立つようにカラフルに書くべきだったか、立ち位置が手前すぎるのか、服装が地味なのかなど、改善点がいくらでも見つかって溺れそうになる。さらには女一人のヒッチハイクはやはり無理があるのだろうか、と今さらどうしようもないことが頭をよぎる。
開始から一時間が経とうとしていた。気を抜くとつい自分を責めそうになる。そんなことをしていては気力も体力も削られていく一方なので、ここは歯を食いしばる。もう少しガソリンスタンドの近くに寄ろうと思い歩き出したとき、給油スペースに停まっていた車から女の人が降りてこちらへ向かって来た。
「稚内まで?」
「あ、はい」
「狭くていいなら乗せられるけど」
「本当ですか。お願いしてもいいですか」
「どうぞ。でもマジで狭いからね」
 彼女は金色の長い髪を風になびかせ、わたしを手招きした。後をついて行くと、小豆色の軽自動車の中には、運転席にサングラスをかけ髪をワックスでツンツンに固めた男の人、後部座席に迷彩柄の服を着たニキビ肌の男の人が乗っていた。
「こいつはアキ。こっちは須賀。んで、私はモモ」
 彼女、モモさんが運転席と後部座席をそれぞれ指して紹介してくれる。モモさんと須賀さんはわたしよりも若く見えたが、アキさんはサングラスをしているせいか、いくらか年上に見えた。名字を言うべきか名前を言うべきか迷った末、秋月琴子です、とフルネームを名乗った。
「じゃあ、コトコって呼ぶー」
 モモさんが助手席に乗り込みながら朗らかな声で言った。
 車の中は確かに狭かった。天井が低いことに加え、足を伸ばすスペースもなかった。助手席の背がわたしの膝にあたる。隣の須賀さんは靴を脱ぎシートにあぐらをかいて座っている。
「狭くてごめんねー。これで精一杯なんさ」
 モモさんが座席を動かそうとするが、それ以上前には行かないらしい。大丈夫です、と答えると、急に座席が後ろに下がってきた。えっ、と声が漏れる。慌てて膝を抱える。
「冗談だよー」
 ケラケラとモモさんが笑い、座席を前に戻した。アキさんと須賀さんも笑っている。緊張していたわたしを気遣ってくれたのだと思うと、心が温かくなった。
 車は国道五号線を走っていた。途中、左側に海が見えた。海、と呟くと、アキさんが、
「二三一号線に入ったらもっと綺麗に海が見えるよ」
 と教えてくれた。
「稚内へはよく行くんですか?」
「去年行ったな。須賀とツーリングで」
「へえ、バイクで」
「そう。でも今回はこいつがいるから、このせっまい車でな」
 アキさんがモモさんをちらっと見て言った。
「人をお荷物みたいに言うな」
 モモさんがアキさんを殴る真似をする。
「モモさんはバイクに乗らないんですか?」
「免許持ってないもん」
「こいつが一番ハーレーとか乗り回してそうなのにな」
 須賀さんが茶々を入れ、アキさんが吹き出す。
「はあ? うっざ。事故起こした奴に言われたくないし」
 モモさんが須賀さんを振り返って中指を突き立てる。
「俺が起こしたんじゃねえよ。あれはトラックの確認ミスだ」
「どっちも同じじゃん」
「一緒にすんじゃねえ」
「あんたもトラックの動き、先読みすればよかったじゃん」
「ちゃんと減速してたっつーの」
「じゃあ何で巻き込まれんの」
「だあから、トラックが突っ込んで来たんだって」
「距離取ればよかったじゃん」
「あのときは無理だった」
 モモさんと須賀さんの言い合いに呆気に取られていると、アキさんが笑いながら、
「こいつらいつもこうだから気にしないで」
 と言った。
「仲良いんですね」
「そ。喧嘩するほど仲が良い」
 二人はまだああだこうだと言い争っている。わたしは何だか二人が微笑ましくて、つい笑ってしまった。
 つかず離れずの距離に見えていた海が、真横に見えるようになった。雲ひとつない晴天に呼応するように、海は青く凪いでいた。
「気持ちいー」
 モモさんが窓を開けた。彼女の髪の毛が後ろまでなびいてくる。
「この道、オロロンラインって言うんですよね」
「そうだよ。さっきからずっとオロロン走ってるよ」
「え、どこからですか」
「小樽から」
 国道二三一号、二三二号をオロロンラインと言うものだと思っていたが、訊けば、国道三三七号、五号、道道一〇六号なども含まれるのだそうだ。
「じゃあ稚内までずっとオロロンラインなんですね」
「まあな」
 アキさんが答えた。
「コトコはさ、何で稚内まで行きたいの? そう言えば訊いてなかった」
 モモさんが前を向いたままわたしに訊ねた。
「しかも、ヒッチハイクで」
「えっと」
 わたしは言葉に詰まった。どこから話せばいいのだろうと頭の中で説明を組み立てていると、
「好きな男にフラれたとか? 傷心旅行的な」
 モモさんが顔だけ振り返ってニヤニヤと笑いながら言った。彼女の勘の良さにわたしは驚いた。傷心旅行というわけではないが、まったく的外れなわけでもない。彼女たちになら正直に話せそうだと思った。わたしは、長くなっちゃうんですけど、と前置きをしてから話し出した。
 あのひとを想っていたこと、あのひとが死んでしまったこと、あのひとの父親から旅ノートを借りたこと、あのひとの見せる夢から醒めたくて軌跡を辿っていること。
 何度も言葉につかえながら、わたしは話した。途中、あのひとの影が網膜の間を行ったり来たりする感覚にとらわれた。あのひとはわたしの話の中ではちゃんと生きていた。今にも言葉を投げかけてきそうなほど、ありありと浮かんでいた。けれど、それは完全な姿ではなく、あのひとはどこか体の一部が欠けていた。目だったり、右腕だったり、足の親指の爪だったりした。わたしは完全な姿のあのひとを思い描けないことに悲しくなった。モモさんたちは黙って耳を傾けてくれていた。
「じゃあコトコはその人の真似をして旅してるんだ」
 モモさんが言った。
「真似と言うか、まあ、そんなところです」
「何か気づくことがあると思って?」
「そうですね」
「ふうん」
 モモさんは何かを考え込むように口を尖らせた。
「コトコちゃんは、その人のことが本当に好きだったんだね」
 アキさんがしみじみとした声で言った。
「好き、でしたね」
「忘れられないんだ」
「そうかもしれません。過去のこと、と区切りをつけたつもりではいるんですけど」
 答えながら、わたしは本当にあのひとのことが今でも忘れられないのだろうかと思っていた。忘れたいとか忘れられないとか、そういうありきたりな感情ではなく、この気持ちはもっと別のものに形を変えているような気がした。
「好きな人の足跡を辿って旅するのもいいけどさ、その人みたいに海に飛び降りちゃ駄目だよ、コトコ」
 モモさんがふざけた口調で言った。横顔は笑っていたけれど、口元がかすかにへの字に歪んでいた。
「まさか、そんなことはしませんよ」
 わたしも笑ってそう答えたが、語尾が震えてしまった。きっとモモさんのへの字が伝染したのだ。アキさんと須賀さんは何も言わなかった。
 車は石狩の道の駅、あいろーど厚田の駐車場に入った。眼下に広がる海がキラキラと光っていた。
「煙草休憩な」
 アキさんがドアを開けながら言った。
 アキさんと須賀さんは車にもたれかかりながら煙草を吸い始めた。彼らの吐く煙が風に乗ってゆらゆらとたなびいていった。
「なか見に行こ」
 モモさんに誘われ、二人で店に向かう。一階では土産物を売っており、エスカレーターで二階に上がると飲食店が屋台のように並んでいた。イートインスペースもある。右端にジェラートの店を見つけ、モモさんが駆け寄って行った。
「コトコ、ジェラート食べようよ」
 子供のようにはしゃいだ声を出す。ガラスケースの中を覗くと、十種類ほどの色とりどりなジェラートが輝いていた。目が一気に賑やかになる。
「美味しそうですね」
「私はねー、三種類にする」
 モモさんは厚田ブルー、マンゴーソルベ、はまなすソルベの三種類、わたしは同じく厚田ブルーとミルクの二種類を注文した。
「コトコのジェラート、爽やかだー」
「モモさんのはカラフルですね」
 海が一望できるカウンターに二人並んで座る。本当に良い天気だった。これほどまでに波がない海を見たのは、もしかしたら初めてかもしれない。遠くから見ると、海面はシルクの布を敷いたようになめらかでつやつやしていた。
「綺麗ですね。心が洗われるようです」
 わたしがそう言うと、モモさんが急に笑い出した。キャハハ、と高い声が人のいないイートインスペースに響く。変なことを言っただろうかと考えを巡らせていると、
「コトコ、舌真っ青!」
 モモさんが笑いながらわたしに人差し指を向けた。
「私も青くなってる?」
 べー、と長く突き出した彼女の舌も青色をしていた。
「青い!」
「ゾンビじゃん、うちら」
 わたしたちは顔を見合わせ、舌を出したり引っ込めたりして笑った。
 たっぷり時間をかけてジェラートを食べ、景色を堪能してから車に戻った。アキさんと須賀さんは既に煙草を吸い終えており、
「遅えよ。うんこでもしてたのか」
 と須賀さんが怠そうに言った。
「ねえ須賀、見て見て」
 モモさんが舌を出すと、須賀さんは目を丸くして、
「うわ、ゾンビじゃん」
 と言った。モモさんと同じことを言っている。モモさんが仰け反って笑い、愉快になってわたしも笑った。
 その後、何度か道の駅で休憩を挟み、車は稚内へ到着した。アキさんに今日泊まる宿を訊かれ、スマホで場所を検索して伝えると、送ってくれると言う。その前に宗谷岬のオブジェを見に行こうと言うことになった。あのひとの旅ノートにも宗谷岬に立ち寄ったことが書かれていた。オブジェは「意外とそっけない」らしい。
 雲一つなく晴れていることもあり、岬から水平線がくっきりと見えた。三角のオブジェは確かに迫力があるわけではないけれど、あのひとの言うようにそっけないとは感じなかった。風が強くて、毛先がばたばたと前に後ろに暴れる。モモさんがスマホで写真を撮ろうと言った。二人で並ぶと彼女の髪がこちらまでなびいてきてわたしの顔を隠した。
 北海道に来たのだという実感が再び湧いてきた。あのひとの軌跡を辿るためでなければ、一生北海道には来なかったかもしれない。テレビでたまに観る程度の、遠い異国のような気がしたまま死ぬまで過ごしていたかもしれない。海を見ていると過去、現在、未来の自分が渦を巻いて水平線に吸い込まれていくような気がした。過去のわたしは吸われてもいい。現在のわたしはここにとどまって、未来のわたしはよくわからない。
 道路の向こうに小さな神社を見つけ、一人で参拝に行った。アキさんと須賀さんは煙草を吸うと言い、モモさんは神様なんて信じないから行かないのだそうだ。
 無人の神社だった。鳥居の前で一礼し、拝殿へ進む。財布から百円玉を一枚取り出し、賽銭箱に入れる。二礼二拍手し願い事を心の中で唱えようとしたとき、はたと気づいた。わたしの願いは何だろう。神様に叶えてほしい願いがわたしにはあっただろうか。手を合わせたまま、わたしは瞬きを繰り返した。
 これが願いと言えるのなら、わたしの願いはきっと叶わない。いや、絶対、もう、叶うことはない。いつだって思うことは一つだけだった。それは今も変わらない。あのひとがいなくなってからも。
 あのひとに抱きしめられたい。
 わたしの中にあるさまざまな願いらしきものをかき集めて究極に煮詰めると、これに行き着く。あの頃だって叶わなかった。あのひとが永遠にこの世から消えてしまった今、どう足掻いたって叶うはずもない。引き出しにかけた鍵をなくすことよりもずっと不確かで絶望的な気持ちを、わたしは飼い慣らすしかなかった。
 結局何も願わないまま形だけの参拝を終え、一礼して神社を後にした。モモさんに、
「随分長く祈ってたね」
 と言われたけれど、曖昧に笑って誤魔化した。わたしの祈りはどこにも誰にも届くことなく、宙を漂っているだけだ。そして、やがて、消える。
 今日泊まるところは、宗谷岬から車で二十分ほど西へ行ったところにある小さな温泉宿だった。小学校を改装したような外観で、柱に括りつけられた看板の宿名の文字はところどころ掠れていた。
「じゃあね、コトコ。元気でね」
 わたしと一緒に車を降りたモモさんがわたしをそっと抱き寄せた。
「本当にありがとうございました。ここまで来れてよかったです。モモさんたちもお元気で」
「旅、楽しんでね」
「はい」
 モモさんが車に戻って行く。アキさんと須賀さんが窓を開けて、じゃあな、と手を振ってくれた。
「ありがとうございました」
 もう一度そう言い、頭を下げる。遠ざかって行く小豆色の車を見つめていると、寂しさが込み上げてきた。でもそれは、心地良い寂しさだった。何かを失ったときや、一人取り残されたときの寂しさとは違う、大きな厚い膜に包まれているような、守られているのだという安心感のある寂しさだった。
 車が見えなくなったところで宿を振り返り、数段ある階段を上って玄関の引き戸を開けた。中は暗く、フロントには誰もいなかった。呼び鈴をチン、と鳴らすと、奥から五十代くらいの背の高い女の人が小走りでやって来た。
「ごめんなさいね、気づかなくて。予約の方?」
「はい。今日一泊する予定の秋月です」
「秋月さん、ね。ここに名前と住所、書いてくれる?」
 彼女は宿泊帳を開き、ボールペンと一緒に差し出した。ボールペンはインクが先端に溜まっていて書きづらかった。記名して彼女に渡した。
 夕飯の時間と大浴場の場所の説明を受け、二階の部屋へ案内された。八畳ほどの和室だった。トイレと洗面所は共同で、部屋には中央に低い木のテーブルがぽつんと置いてあった。左側の壁には掛け軸が忘れ去られたようにかけられてあったが、達筆すぎて何と書いてあるのかはわからなかった。
 レースのカーテンを開けると、眼下にあるのは駐車場だった。もっと遠くに、夕焼けに染まった海が見えた。あのひとが泊まった部屋は何号室だったのだろうか。ふと気になった。部屋があるのは二階だけのようだったし、廊下を挟んで反対側は壁になっていた。何号室に泊まっても、今わたしが見ているのと同じような景色が見られるのだろうけれど、小さな旅館で十そこらの部屋数なのだから、どうせならあのひとが使ったのと同じ部屋に泊まりたいと思った。
 けれど、旅ノートを見ても部屋番号までは書いていなかった。断片的なノートの情報を頼りにあのひとの軌跡を辿っても、あのひとの足跡とわたしの足跡が完全に重なり合うことはない。それはわたしをひどくもどかしい気持ちにさせた。せめて旅ノートが詳細に書かれてあれば、とあのひとを責めたくなる。
 こんなことをして、何になるのだろうか。旅の最終地点であのひとに会えるわけでもない。そんな想念は道中何度もわたしを襲った。わたしは何がしたいのだろう。目的はある。あのひとの軌跡を辿って、あのひとが消えた海を見て、あのひとが見せる夢から醒める。けれど、その先にあるものはわたしをどこへ連れて行くのだろう。
 オレンジ色に染まった空と遠くの海を眺めながら、わたしはしばらく思索に耽った。考えても考えても答えの出ないことを自分に問い続けた。苦しい作業でもわたしはやめられなかった。
 窓から離れ、畳にごろんと寝転がった。染みだらけの天井を見上げる。夕飯の時間まではまだ一時間ほどあった。畳の匂い。足を動かせばずりずりと鳴る。ざらざらした感触。束の間、あのひとの記憶が遠くなる。ずん、と落ちるような感覚がした。
 目を開けると、部屋も窓の外も薄暗くなっていた。眠っていたようだ。起き上がってスマホを見ると、夕食の時間を少し過ぎていた。慌てて一階の食堂へ向かう。
 食堂にはわたしの他に二組の客がいた。窓側の席に宿備えつけの浴衣を着た五十代くらいの男性、入口から一番遠い席にベージュの作業着を着た上司と部下らしい男性二人が、それぞれ食事をしていた。二〇五号室、と書かれた札が置いてある席に座ると、厨房から黒いエプロンをしたおじいさんが顔を出した。わたしに気づいてまた厨房へ引っ込み、しばらくすると刺身と茶碗蒸しを持って現れた。
「あと天ぷらと煮つけと汁物がくるから。ご飯はおかわり自由。あそこに置いてあるから自分で取って」
 入口の側の長机に置かれた炊飯器を指差して、彼は言った。
「あの、夕食の内容は季節とか、日によって変わるんでしょうか」
 わたしは厨房に戻ろうとした彼を引き留めて訊ねた。彼は一瞬驚いたような顔をしたけれど、すぐに、
「そうだなあ、刺身とか天ぷらなんかは季節によって変わるな。他も仕入れの具合でちょこちょこ変わってるよ」
 と答えてくれた。それがどうした? というような顔をされたが、わたしはお礼を言って話を切り上げた。
 あのひとが食べたものとまったく同じものを食べられるなんて思ってはいなかった。何から何まで同じことをするのはやはり不可能なのだ。心がからっぽになっていくのを感じた。次々と箸で料理を口に運んでいるのに、食べれば食べるほど、その料理が美味しければ美味しいほど、わたしの内側は空洞になっていった。
刺身は新鮮だった。茶碗蒸しは優しい味がし、煮つけは出汁がふんわりと香った。天ぷらはさくさくしていて抹茶塩をつけるとさらに美味しく感じたし、白米はわたし好みのやや柔らかい炊き具合だった。とても満足したのに、わたしは悲しい気持ちでいっぱいだった。
 空になった食器を見つめ、今さっき食べた料理の味を思い返そうとしたけれど、うまくできなかった。美味しかったという感想も揺らぐほど、わたしは何も思い出せなかった。静かに席を立ち、よろよろと階段を上って部屋に帰った。体だけは食事をしたことを記録しているようで、たっぷりと重かった。
 ドアを開けると、部屋の中央に布団が敷いてあった。布団に寝っ転がると、体が沈んでいくような心地がした。再び起き上がる気にはなれなかった。どこまでも沈んでしまえと思った。温泉に入って体と顔と髪を洗い、上がった後スキンケアをして髪を乾かす、という一連の流れが億劫に感じた。起き上がるきっかけを探しているうちに、わたしは眠りに落ちていった。
 
 微睡の中で何度もあのひとの名前を呟いていた。わたしの口の中に広がり舌に溶けるまで、ずっと。あのひとは自分の名前の由来を、
「馬のように健やかにのびのびと育ってほしいから、だってさ」
 と言っていた。サークルで開催したバーベキューがもうすぐお開きになろうとしていたときだった。仲間たちはバイトがあるからとか掛け持ちしている別のサークルに顔を出すなどと言って、一人また一人と減っていった。残ったメンバーも酒に酔い潰れるか、グループを作って語り合っていた。そのどれでもないわたしとあのひとは、弱くなっていく炭火に目をやりながらぽつりぽつりと話をした。
 名前の由来を訊いたのはわたしからだった。一歩でもあのひとの深淵に足を踏み入れたかった。あのひとと秘密を共有すること、あのひとを構成している要素をできるだけ多く知ること、あのひとの心に触れること。それらはわたしの目標であり望みであり、テーマだった。名前の由来を知ることは、あのひとを構成している要素を知ることに含まれた。
 馬のように健やかにのびのびと育ってほしいから、育馬。
 あのひとの飄々とした清潔な雰囲気は、確かに毛並みの綺麗な白い馬を思わせた。
「琴子ちゃんは?」
 あのひとはわたしの名前の由来を訊ね返した。
「母の母親、わたしの祖母が琴を習っていたらしいんです。母は小さい頃、毎日祖母が練習する琴の音を聴いて育ったって。とても素敵で心安らぐ音だったから、自分に子供ができたら絶対琴という字を使おうと思った、って母が言っていました」
「へえ。いいエピソードだね。琴子ちゃんは琴弾けるの?」
「弾けませんよ。家にあった琴も、祖母が亡くなったときに処分してしまったらしいので」
「そうなんだ。でも自分の名前の由来になってる楽器を弾けたら格好いいだろうな」
「それは確かに。じゃあ育馬先輩は馬に乗らなきゃですよ」
 わたしがそう言うと、あのひとは吹き出して目を細めた。
「馬に乗るのは難しそうだなあ」
「琴を弾くのも難しそうです」
「どっちも機会があまりないしね」
「でも乗馬体験とかあるじゃないですか」
「そうだけど、行く機会があるかって言ったらそうでもないじゃないか」
「じゃあ今度のサークルの親睦会は、牧場で乗馬体験をするってことにしましょうか」
「それって、人間同士より馬と親睦が深まっちゃわない?」
 あのひとの言葉に、わたしは声を上げて笑った。あのひとも笑っていた。
誰にもこの空気を乱してほしくなかった。一匹の虫でさえも、わたしたちの中に入ってくるなと思った。わたしはあのひとと理想のワンシーンを築いていた。わたしの望みがそこに詰まっていた。
 
 目を開けると、カーテンの隙間から覗く空が薄明るくなっていた。明け方の四時だった。起き上がってカーテンを開ける。昨日、夕食を食べた後すぐに寝てしまったからか、体が重だるかった。
 大浴場は二十四時間やっているそうなので、さっと入ることにした。タオルを持ち階段で三階へ行く。赤い暖簾をくぐり、脱衣所へ入る。脱衣所は狭く、衣類かごが三つ、洗面台は一つしかなかった。混み合うことはないのだろうかと思ったが、どことなく寂れた雰囲気のこの宿の風呂が客で賑わう様子は想像できなかった。
 浴室内も例に漏れず狭かった。五、六人入れば窮屈になりそうな浴槽が一つと、洗い場が三つ。真ん中のシャワーを捻ると、冷水がちょろちょろと出てきた。温度調節をして湯量を最大にしてみたが、お湯は出るようになったものの、勢いは弱いままだった。両隣のシャワーも同じだった。仕方がないので、桶にお湯を張って髪や体を洗った。幼い頃、祖母と一緒に家の風呂に入ったとき、そうやって洗っていたことを思い出した。
 温泉はとろりとした湯質で少し熱めだった。腕をゆっくり動かすと、お湯が絡まる感じがした。浴槽の底もぬるぬるしていた。温泉は好きだが長く入っていられないわたしは、五分くらい浸かり浴室を後にした。
 バスタオルで体を拭き、着替えて髪を乾かす。ポーチを忘れたので、スキンケアは部屋に戻ってからした。一眠りすると、ちょうど朝食の時間になっていた。
 食堂では昨日と同じ二組の客がそれぞれ無言で朝食を食べていた。作業着の二人はもう食べ終わりそうだった。席に着くと、昨日受付をしていた女の人が出てきて、白米と味噌汁をわたしの前に置いた。
「ご飯、おかわりしたかったら声かけてね」
 朝はセルフではないらしい。入り口前に目をやったが、炊飯器は置いていなかった。
 テーブルには他に焼き鮭とほうれん草の胡麻和え、レンコンのきんぴら、だし巻き卵、ヨーグルトのカップが置いてあった。家では朝に和食を食べることがほとんどない。仕事がある日はミキサーでスムージーを作るか、眠気覚ましにコーヒーを飲んで行っている。固形物は胃が重くなるのであまり食べない。休みの日は十時くらいに起きて、ブランチとしてパスタや蕎麦などの麺類を食べる。だから、こんなにしっかりとバランスの取れた朝食を食べるのは、正月に実家へ帰省したときのおせち料理以来だった。
 食べ切れないと思っていたが、どの品も癖がなくやさしい味付けだったので箸がよく進んだ。ヨーグルトまで完食し、厨房にごちそうさまでした、と声をかけて部屋に戻った。
 布団を綺麗にし服を着替え、歯磨きをした。日焼け止めを顔と首と腕に塗り、出発の準備が整った。部屋を出る前に、旅ノートを確認する。今日は根室の納沙布岬まで大移動することになっていた。稚内から納沙布岬までは車で大体九時間から十時間はかかるらしい。今は朝の八時過ぎ、九時くらいにヒッチハイクの車が見つかったとして、岬に着くのは十九時前後になる。
 それでよかった。あのひとが最期に行ったのは真夜中の納沙布岬なのだ。あのひとの軌跡を辿るのなら、そこだけは絶対に揃えなくてはいけない。昼間では駄目なのだ。岬では真夜中まで時間を潰さなくてはならない。どこか待てる場所はあるだろうか。
 ノートを閉じ、バックパックにしまう。チェックアウトのためフロントまで行くと、昨日の夕食のとき少し話したおじいさんが宿帳をめくりながら立っていた。鍵を渡すと、
「二〇五のお客さんだね。はい、五千円ね」
 と銀色のトレーを差し出した。財布から千円札を五枚取り出し、トレーに乗せる。
「ちょうどね。領収書いる?」
 いらないと答えると、おじいさんはレジに五千円をしまいながらわたしの顔をちらりと見た。
「今日はこれからどこ行くの」
「根室の納沙布岬まで行こうかなと」
「随分遠いな。車で?」
「ヒッチハイクで行きます」
「ヒッチハイクったら、知らん車に乗せてもらうやつか」
「そうです。昨日もヒッチハイクで小樽からここまで来ました」
「はあ、そりゃすごいな。親切な車、見つかるといいな」
「はい」
 お世話になりました、と言って玄関を出ようとすると、おじいさんに「なあ、あんた」と呼び止められた。振り返ると真面目な顔をしたおじいさんと目が合った。
 
「あんた、死ぬなよ」
 
 おじいさんはにこりともせずそう言った。背中がぞくりとした。暑いからではない、冷たい汗が、こめかみを伝った。すぐには反応できなかった。何とかして冗談のような空気にしたかったけれど、真顔のおじいさんを見るとその方法が思い浮かばなかった。
 無理矢理口角を持ち上げ笑みを作ると、一礼して逃げるように宿を出た。駐車場を小走りで横切り広い道に出てもなお、心臓がばくばくと脈打っていた。まだ後ろからおじいさんがこちらを見ているような気がして、宿を振り返ることはできなかった。
 道道二五四号線を北に向かって歩いているうちに、段々と気分が落ち着いてきた。わたしはバックパックからスケッチブックとマジックを取り出し、一旦立ち止まって「根室 納沙布岬まで」と書いた。宿であらかじめ書いてくればよかったと思った。
 昨日と同じくガソリンスタンドの前で待つことにしようと近くの店舗を調べると、徒歩では一時間半もかかるらしい。この辺りに車を待てるスポットはないか地図アプリで検索してみる。けれど、どれも遠くまで行く車は期待できそうにない場所ばかりだった。
 ヒッチハイクについて、もっと事前に調べておくべきだった。何も知らないまま、何も準備をしないまま、あのひとがそうしたからというだけで今回の旅に出てしまった。あのひとはよく調べてから旅に出たのだろうか。死ぬことを考えていたのなら、行き当たりばったりの旅だったかもしれない。いや、死に場所を納沙布岬に定めたあと、念入りに準備をしたのかもしれない。わからない。あのひとの考えていたことは何一つわからない。頼みの綱の旅ノートでさえ、詳しくは書かれていないのだから。
 わたしは途方に暮れてしまった。今すぐ蹲って泣き出したい衝動に駆られた。途端、胃が迫り上がってくる感覚がし、気持ち悪さで口の中が酸っぱくなった。はからずとも、わたしはその場に蹲った。胃の辺りをさすってみたが、吐き気はするのに中のものは出てこなかった。いっそすべて吐き出してしまえたら楽なのに、と思う。
 なかなか立ち上がれずにぐずぐずと体を揺すっていると、数メートル先に車が停まる気配がした。ドアを開閉する音に続いて、たったったっ、と足音が近づいてくる。
「大丈夫ですか」
 顔を上げると、赤いチェックのシャツを着て黒縁眼鏡をかけた青年が心配そうな顔をしてわたしを見下ろしていた。片手にスマホを持っている。咄嗟に救急車を呼ばれるのかと思った。確かに気分が悪いけれど、ここで病院に連れられて行ったら計画が狂ってしまう。わたしは自分の体調よりも旅が計画通りに進まなくなることのほうが気がかりだった。
「大丈夫です。少し休めば治ると思うので」
 わたしは青年を見上げてそう言った。
「でも」
「本当に大丈夫です。それよりもお願いがあるのですが」
「何でしょう」
「もしこれから根室方面に向かうのであれば、わたしを乗せていただきたいのですが」
 青年はえっ、と言ったきり言葉を失った。わたしは急いで道に伏せてあったスケッチブックを見せ、
「実はわたし、ヒッチハイクの旅をしていまして。今日中に根室まで行きたいんです。昨日も小樽からここまでヒッチハイクで来ました。でも、この辺りじゃなかなか車を捕まえるのは難しくて、どうしようかと思っていたら少し気分が悪くなってきて」
 と言った。何とか青年にわかってもらおうと焦っていたせいか、早口になってしまった。彼はますます不審に思っているような顔をした。わたしはしどろもどろになりながら、ヒッチハイクの旅をしている理由や昨日車に乗せてくれたモモさんたちのことなどを必死に説明した。けれど青年は、
「じゃあ、急病人ではないんですね」
 と言い、スマホを持った手をだらりと下げた。
「あ、はい、すみません。病院などには行かなくてもよさそうです」
「それならいいですけど。僕はこれから網走まで行きますが、そこまででもいいなら乗りますか?」
「網走、って根室に近いですか?」
「網走根室間は車で三時間ちょっとですね。ここから網走まで六時間くらいなので、ちょうどいい車が見つかれば今日中に根室まで行くことも可能だと思いますけど」
「そうですか。じゃあ、網走までご一緒してもよろしいですか」
「いいですよ」
 青年は頷いて、立ち上がろうとするわたしに手を差し伸べてくれた。
 黒のプリウスの助手席に乗り込みシートベルトを締めると、青年がただ、と言った。
「網走まで六時間ほどと言ったのですが、ぶっ続けで運転できるわけではないので、二時間に一度は休憩しながら行きたいです。なので、実際は七時間くらいかかるかと思いますが、大丈夫ですか」
 彼の生真面目な物言いに、少し緊張がほぐれた。わたしは笑って、大丈夫です、と言った。
 車は静かに走り出した。どういうルートで行くのか気になり、現在地から網走までの道を地図アプリで検索してみると、オホーツク海沿いをずっと南へ向かって走るらしいことがわかった。最終地点の納沙布岬まではさらに南下するようだ。
 地図上で「弟子屈」と書いてある地域を見つけ、青年に読み方を聞いた。
「てしかが、と読みます。難しいですよね」
「普通じゃ読めないです。でしくつ、かと思いました」
「北海道には他にも絶対読めないだろっていう地名がたくさんありますよ」
「あ、じゃあ興味の興に部と書く町名は何と読むんですか? 網走に行くまでに通るみたいですけど」
「何て読むと思います?」
「え、何だろう。こうべ町?」
「正解は、おこっぺ、です」
「絶対読めない!」
 彼とは北海道の地名クイズでしばらく盛り上がった。生まれも育ちも北海道だと言う彼にも読めない地名がいくつかあった。
 二時間ほど走り、枝幸町の道の駅でトイレ休憩を挟んだ。お互い名乗っていなかったことに気づき、出発前に今さらながら自己紹介をした。彼は飯嶋さんと言い、現在住んでいる稚内から網走の実家へ帰省するところだったらしい。公立高校の教員で、二年前に稚内へ転勤になったと言う。
「公立の教員って数年ごとに異動になるんですが、北海道は広くて大変ですよ。実家から通えるなんてことはまずない。今は稚内ですが、次は函館に転勤なんてことも普通にありますからね」
「函館って、北海道の南ですよね? 端から端じゃないですか」
「そうです。そうなったら大移動ですよ」
 飯嶋さんとの会話は楽しかった。歳はわたしとそう変わらないように見えるのに、知識が豊富で話し上手だった。紋別の道の駅に着く頃には、わたしたちはすっかり打ち解けていた。けれど、くだけた口調で会話をするようになっても、飯嶋さんはわたしの旅の事情については聞いてこなかった。
 それから二時間ほど走り、網走に到着した。わたしは網走駅で車を降ろしてもらうことにした。飯嶋さんの実家は駅から車で五分もかからないところにあるそうだ。途中道が混んでいたこともあり、駅に着いたのは十八時近くだった。
「今から本当に根室まで行くの? 長時間車に乗ってて疲れたでしょう。今日はもう網走に泊まったら?」
 飯嶋さんにそう勧められ、実際座りっぱなしで背中と腰が痛くなっていたわたしは、今日は駅前のホテルで休むことにした。とても納沙布岬まで行く気力はなかった。
 飯嶋さんにお礼を言って、車を降りようとすると、
「秋月さん、辛いことがあっても諦めないで。またどこかで会えたらいいな。良い旅を!」
 運転席から身を乗り出して彼はそう言った。わたしが会釈して手を振ると、黒のプリウスはウィンカーを出して他の車の流れの中に消えて行った。
 辛いことがあっても諦めないで。
 あんた、死ぬなよ。
 わたしには同じ意味の言葉に聞こえた。どうして飯嶋さんまでそんなことを言うのだろう。わたしは自分の話なんてほとんどしていないのに。ましてや、あのひとのことなんて一言も喋っていないのに。わたしはそんなに危うく見えるのだろうか。他人の目から見たら生きていくことに疲れたように、今にも死にそうに見えるのだろうか。
 腑に落ちないまま駅構内のベンチに座り、今日泊まれるホテルを探した。すぐ近くにある全国展開のビジネスホテルに空きがあった。ネットで予約をし、ホテルに向かう。徒歩一分程度で到着した。
 チェックインをして、四階までエレベーターで上がる。部屋は初日に札幌で泊まったホテルと似たり寄ったりの広さだった。バックパックを床に置き、ベッドに倒れ込む。ちょうど夕飯の時間だったが、外に出るのは億劫だった。コンビニかどこかで食べるものを買ってから来ればよかった。
 わたしはいつも後悔してばかりだ。やらなかった後悔が圧倒的に多いが、中にはやってしまった後悔もある。あのひとに告白なんてしなければよかった。わたしがあのとき想いを伝えなければ、仲の良い先輩と後輩でいられたかもしれないのに。わたしが自らあのひととの関係を断ち切ったようなものだ。あの頃のわたしは、告白をすればあのひととどうにかなれると思っていたのだろうか。なんて傲慢で浅はかな考えでいたのだろう。
 わたしはあのとき、ずっと好きでした、と言った。それに対してあのひとは、気持ちには応えられない、と。付き合ってほしいと伝えたわけでもないのに気持ちに応えられないと言ったのは、わたしを好いていないということに他ならない。
 思い返しても、もう涙は出てこなかった。生きていても二度と会うことはできないのと、相手が死んでしまって二度と会えないのとでは、どちらのほうが悲しいのだろうか。わたしはあのひとが死んだと聞いたとき咄嗟に、
「ああ、これでもう苦しまなくていいんだ」
 と呟いていた。なかなか実感が湧かなかったり、信じられない気持ちはあった。あのひとの遺影を目にして随分混乱もしたけれど、それでも咄嗟に呟いたことはわたしの中の真実であったと思う。
 旅ノートを開いた。あのひとはヒッチハイクをして一日で稚内から根室まで移動している。わたしも頑張れば行けたかもしれない。あのひとの辿ったルートにはないところで中途半端に留まってしまった。最初から完璧とは言い難い旅だったけれど、せめてルートくらいは正しく辿りたかった。わたしはまた後悔をして心が重くなった。
 
 
 大学へ行く途中にある公園の水飲み場近くで、ネズミが死んでいたことがあった。頭を踏み潰されたようで、脳みそらしきぐずぐずとした半個体が割れた頭蓋骨の中から見え隠れしていた。
 交差点でトラックが曲がり際、わたしのスニーカーに泥水をかけて行ったので、通り道のこの公園で靴を綺麗にしようと思っていたところだった。
 ネズミの死骸を見たわたしの脳裏には、あのひとの清潔な顔が浮かんでいた。鳥を殺したと言っていた日から二週間が経っていた。
あのひとがやった確証はない。でも、あのひとがやったのだと思って頭の潰れたネズミを見ると、そのおぞましいはずの死骸すら愛おしいものに思えてくるのは何故だろう。わたしはネズミの体にそっと触れた。ひんやりとしていた。指でつつく程度では皮膚の柔らかさのみが感じられ、摘んでみないと硬直しているかどうかわからなかった。
 こうしてネズミの死骸を弄んでいるわたしと、鳥を殺したと言って笑っていたあのひとは同類とみなしていいのではないかと思った。同類項で結んでほしかった。善良そうな顔をして残忍なことをするあのひとは、さらさらと流れる小川のように、小川を泳ぐキラキラした魚のようにどこまでも清潔だった。
 水飲み場の蛇口を捻り、溢れてきた水で手を洗った。何度も何度も手のひらを擦り合わせ、ごしごしと力を込めて洗った。ネズミの死骸に触れたからだ。手を洗うことでネズミの死骸はただの汚いものになり下がる。命を粗末にしている。死を軽く見ている。そんなつもりじゃない、わたしはただあのひとのようになりたいだけだ。
わたしは目的であった靴を綺麗にすることは忘れ、手ばかり執拗に洗った。ぬるかった水は次第に冷たくなっていき、それに呼応するように手も感覚がなくなるほど冷たくなった。足元のネズミの死骸にわたしの手から飛んだ水がかかっていた。脳裏にはやはりあのひとの清潔な笑顔が浮かんでいた。
 
 
 翌朝、十時にホテルをチェックアウトしたあと、まっすぐに網走駅に向かった。根室行きの切符を買い、電車に乗る。あのひとの辿ったルートにはない網走で滞在してしまった今、もはやヒッチハイクで根室まで行く理由がなかった。どうせ正しく辿れないのなら、少しくらい楽をしてもいいのではないか。そんな思いで電車に乗った。
 東釧路で乗り換えをし、根室まで行く。根室駅から納沙布岬までは車で三十分ほどらしい。タクシーで行ってもいいかと思っていた。
 あのひとの軌跡を辿ろうと思って北海道までやって来たのに、今さら計画が頓挫するなんて情けなかった。思えば旅の最初から思い通りにはいっていなかった。札幌ラーメンの店、泊まったホテル、小樽で観光した場所など、あのひとの旅ノートには記されていなかったからわたしが勝手に判断するしかなかった。
 なんだ、最初から頓挫していたじゃないか。
 そう思うとわずかに心が軽くなり、同時に途方もなく虚しくなった。
 車窓から見える景色が霞んでいた。目を閉じると、あのひとの姿が今でもはっきりと浮かんでくる。あのひとが死んで、わたしは苦しまなくてよくなったかと言えば、実はそんなこともなかった。それまでも思い出したりたまに忘れて何かに集中したり、でもずっと心には居たりと、あのひとはわたしの周辺に点在していた。常に苦しかったということもなかったが、思い出したときに猛烈に苦しくなった。
 あのひとが死んで、会おうと思えば会えるかもしれないという甘い期待は打ち砕かれた。もう二度と会えないのだという事実は、確かにわたしを楽にさせた。けれど、あのひとがわたしの中から消えたわけではない。生きていても死んだとしても、わたしの中にあのひとは変わらず居るのだ。それはやはり苦しいことだし、何も解決はしていない。
 あのひとから解放されたい。あのひとの見せる甘くて苦い夢から醒めたい。そう思って旅に出た。でも心の奥底で、本当に? と問うわたしもいる。
自ら望んであのひとに縋っているんじゃないの?
 鋭い目で問いかけてくるわたしは、あのひとの腕をしっかりと掴んでいる。あのひとの姿は見えなくても、わたしが掴んでいる白い腕はあの人のものであるとわかる。
 駅に電車が停まって扉が開くたび、わたしは我に帰る。発車するとまた思考の海へ潜る。幾度も繰り返しながら東釧路へ到着した。重い腰を上げて電車を降りる。まだ乗っていたかった。永遠に乗り続け、もう二度と戻って来られない地まで行きたかった。
 あと二時間半ほどで根室に着く。わたしはどこにも存在していないみたいだ、と思った。車窓から見えたはずの景色も覚えていない。あのひとのことを考えて網走から東釧路までの三時間を過ごしていたけれど、どこにも収束しなかった。わたしが居て、思考を巡らせた証はどこにも残っていない。少なくとも、わたしの中には。
 乗り換えた電車の中でも、あのひとのこと考えてしまう。それはもう仕方のないことだった。だってあのひとは死んだのだ。その地にわたしは向かっているのだ。考えないはずがない。
あのひとを思い、少しの間眠り、起きてまたあのひとのことを思い浮かべた。そうして根室に到着すると、電車を降り駅前でタクシーを拾った。十六時前だった。
「納沙布岬までお願いします」
 タクシーの運転手は何も言わず車を走らせた。彼が無口でよかったと思った。話しかけられたら、うまく愛想笑いをしながら対応できる自信がなかった。わたしは自分の内側をあのひとで満たすのに必死だった。
 納沙布岬に近づくにつれ、霧が出てきた。空も曇っていて、岬に着くと夏だというのにかなり肌寒かった。
岬にはアーチ状の大きなオブジェがあった。北方領土を表したものらしい。オブジェの下には灯火が燃えていた。その他、食事処や資料館などもあったが、立ち寄らずに少し離れたところにある灯台を目指して歩いた。
「灯台の下の断崖に打ち上げられて、倒れていたらしい」
 あのひとの父親の震える声が鼓膜に蘇った。海に飛び降りたと聞いていたからどんなに高い崖なのだろうと思っていたが、辺りを見渡して拍子抜けした。岬から海までは断崖絶壁というほど切り立っているわけでもなく、何故ここに飛び込んだのだろうという疑問でいっぱいになった。もっと険しい断崖絶壁が他にもあっただろうに。詳しいことはわからないが、肉眼で見下ろした感じだと確実に死ぬにはいくらか頼りない気がした。
 ますますわからなくなる。あのひとはもしかしたら死ぬつもりではなく、ただ単に足を滑らせただけなのではないか。不慮の事故だったのではないか。それはあのひとの死を知ってから幾度となく考えたことだった。けれど、いつも「真夜中」という単語がその考えを無にする。あのひとは真夜中の岬で海に飛び込んで死んだとされているのだ。何が正しいのかわからない。真実は誰にもわからないのだ。もういない、あのひとにしか。
 岬は曇っていて、遠くまで見えなかった。晴れていれば北方領土が見えるらしい。真夜中の岬では何か見えるものはあったのだろうか。わたしは真夜中までここで待つつもりだった。あのひとが見た世界をわたしも見たい。あのひとが最後に目にしたものを、わたしも。
 わたしは五感を目一杯研ぎ澄ませて、あのひとの気配を感じようとした。この場所でなら、あのひとを間近に感じることができるような気がした。けれど、いくら目を凝らしても、耳を澄ませても、鼻をひくつかせても、深呼吸をしても、手を広げても、何も感じることはできなかった。薄黒い海が見え、轟々と風の音がし、かすかに潮の匂いがし、肺に冷たい空気が入り込み、半袖から出た腕に鳥肌が立つだけだった。
 柵に手をつき、海を見下ろす。波飛沫がパアン、と飛び散る。だんだん高さがわからなくなる。海面が迫ってくるように感じた。あのひとは何を見て何を思ってここから飛び降りたのだろう。わからない。どうしてもわからない。それだけが、わからない。本当は何もわからない。あのひとが考えていることなんて、わかった試しがない。
 わたしもここから海に飛び込めば、わかるのだろうか。風がわたしの前髪を払った。視界が開ける。曇天の空とつながった海が見える。わたしは唾を飲み込んだ。
 柵からそっと手を離した。柵の内側ぎりぎりに立つ。風が吹き抜けていった。両足の感覚がなくなる。足元を見ると、ぴたりと揃った靴先があった。このまま風に溶けて、空気に溶けて、海に溶けてしまいそうだった。わたしは今なら何にでも擬態できると思った。
 
 キャハハッ
 
 すぐ近くで高い子供の笑い声がした。わたしははっと我に返った。急激に海が遠のいていく。両足の感覚が戻り、溶けてしまいそうだった体は鉛のように重くここにあった。
 振り向くと、母親に手を引かれた五歳くらいの男の子がこちらを見ていた。わたしを、見ていた。吸い込まれそうな大きな瞳は、全然似ていないのに何故かあのひとを彷彿とさせた。
 わたしは海に目を戻した。真下を見ても、もう海面が迫り上がってくることはなかった。何もかも剥がれ落ちた感覚が、わたしの体を取り巻いていた。浅瀬に打ち上がった昆布のようなくたびれた感覚だった。あのひとのことを考えてみた。脳裏に鮮明に像を結ぶ。色褪せてなどいない。
 わたしはスマホを取り出し、タクシー会社に電話をした。納沙布岬まで一台お願いします。電話を切り、最東端の碑を写真に収めた。もう来ることはないだろう。思えば、初日からまったく写真を撮っていなかった。記念に何枚か撮ればよかった、と淡い後悔をした。
 
 この日は根室駅前のビジネスホテルに泊まり、翌日釧路空港から東京へ帰った。飛行機に乗ってすぐ眠りに落ちた。離陸時にはすでに眠っていたと思う。機体が最終の着陸態勢に入ったところで目が覚めた。夢は見なかった。
 それからはずっと窓の外を見ていた。東京の街が近づいて来て、海に滑り込むように機体が傾き、あっと思ったところで滑走路が見えた。着陸はなめらかでほとんど揺れなかった。
 羽田空港から京急線に乗り、自宅へ向かう。わたしの気持ちは厚田で見た海のように凪いでいた。直之はわたしがいない間、ちゃんとご飯を食べていたのだろうか。旅中、一度も連絡をしなかった。彼からは何通かラインが送られてきたけれど、既読だけつけて返信はしなかった。お土産を買うのも忘れてしまったし、家に帰ったら怒られるだろうか。
 今日帰った瞬間から日常に戻るのだと思うと、なんだか不思議な気持ちになった。五日間の北海道の旅は振り返ってみれば呆気なく、切羽詰まっていた自分が可笑しく感じてしまうほどだった。わたしは途方もないことをしようとしていたのだと気づいた。
 あのひとのことはきっと生涯忘れられない。何故、と問われたらうまく答えられないけれど、あのひとでなければならなかった理由が今もわたしの体の奥底に眠っているのだろう。
 夢からは醒めなかった。わたしはあのひとが見せる夢に永遠に溺れたままなのだ。それはわたし自身が見たい夢なのかもしれなかった。叶わなかった想いを精算するには、この旅はあまりに杜撰すぎた。それでもいいのかもしれない。精算できてしまったら、わたしは多分立ち上がれなくなる。
 自宅に着き、玄関のドアを開ける。直之は仕事に出ているようで、部屋にはいなかった。バックパックをソファに投げ出し一息つく。急速に日常に戻っていく。休む間もなくわたしは荷物の片付けを始めた。着た服を洗濯機に放り、スキンケアセットを洗面台に並べ、その他細々としたものを所定の場所に戻した。最後に旅ノートを取り出し、パラパラとめくった。あのひとの父親に返さなければならない。大事な遺品なのだ。わたしは旅ノートをいつも使っているトートバッグの中に入れた。あのひとの父親に連絡するため、スマホを手に取る。
 連絡帳を開く前に、北海道の旅で一枚だけ撮った納沙布岬の最東端の碑の写真を眺めた。この岬は日本で一番早く日の出が見られる場所らしい。小樽運河で写真を売っていたお兄さんの言葉を思い出した。夏場だと四時すぎには日が昇るという。夜明け前から岬に訪れて日の出を見る人も多いのだとか。
 ……ああ。
 思わず声が漏れた。手が、唇が、震え出す。あのひとは、あのひとは、あのひとは。
 
 日の出を見ようとしていたのではないか。
 
 わからない、そんなことは誰にもわからない。でも、少しでもその可能性があるのなら、わたしは。
 自ら命を絶ったことに変わりはないのかもしれない。けれど、あのひとの死にゆく瞳に、薄れゆく意識の端に、眩い朝日が映っていてくれたなら。あのひとが最期に見たのが希望に満ち満ちた日の光であったなら。わたしはそれを祈ることしかできない。いや、祈りももう届かないけれど、それを想像してあのひとの死を、自分の心を、慰める。
 いつか、もう一度あの場所へ行こう。そう思った。あの岬から日の出を見たい。何も変わらないかもしれないけれど、あのひとの最期の足跡が朝日に照らされていたことを願って。だから今は、これはいらない。
 わたしはデータフォルダから納沙布岬の写真を消去した。コンマ一秒で消え、トップには今年の春に撮った満開の桜の写真が表示された。直之と一緒に見に行った桜だった。あのひとがいなくなった世界の桜だった。