約束なんてなかった。
 ありがとう。ごめんね。さようなら。
 そんなありふれた使い古しのひどく簡素な言葉すらも、あのひとは言わなかった。わたしの欲しかった言葉はどれも、あのひとの薄い唇の間からは生まれなかった。喉の奥に引っかかって出なかったのだろう、というふやけた想像も塵となって消えるように、完全にあのひとの口は固く閉じられていた。
「あなたの気持ちには応えられません」
 その一言だけが、わたしの胸を深く貫いていた。
 うすら笑いのような愛想笑いを浮かべて、あのひとはわたしに背を向けた。何事もなかったかのように去って行く後ろ姿に、わたしは失敗を悟った。
 あのひとが動き、話し、笑う姿を見ることは、それから二度となかった。あのひとは深い夏のオホーツク海に身を投げたのだ。
 ありがとう。ごめんね。さようなら。
 あのときどれか一つでも言われていたなら、わたしはあのひとの死を悼んでもそれなりに受け入れることができたかもしれない。好きだった。それだけのことだと割り切ることができたのかもしれない。
 醒めることができない。あのひとが一番、わたしに夢を見せてくれていた。あの日から十年の歳月がわたしを深い森の底に追いやって、抜け道も見当たらず、声も届かない、空が見えないほど高い木々の狭間で、途方に暮れるばかりだった。
 あのひとは死の一週間ほど前から一人で旅をしていたようだった。生まれ育った埼玉を出て、行ったこともないはずの北海道へ。どうして北海道なのかは誰も知らない。
 わたしの知る限り、あのひとは旅とは無縁だった。地に足がつかない行為だと真っ先に言いそうだ。目的のある旅行とは違い、旅には放浪の意がある。目指すもののない、精神的な終着があるだけの旅はあのひとの最も理解し難い行為だったはずだ。
 それなのに、あのひとはバックパック一つで家を出たと言う。死の前日に電話で話したと言うあのひとの父親は、
「ヒッチハイクで北海道を回ったらしい」
 と唇を噛みしめながら泣いていた。
 会わなくなってから十年の間に、あのひとの考えや価値観は変わったのだろうか。それは十分にあり得ることだった。わたしだって色々なことが変化した。二十歳だった頃の自分は思い出したくないくらい幼稚で浅ましく、無知で傲慢だった。今は少しは成長したと思いたい。
 だから、あのひとが旅に出たことは何の矛盾もなく自然なことなのかもしれない。わたしだけがあの頃にとらわれて身動きがとれなくなっているのだ。あのひとに対する気持ちはこの十年の間、波間を漂う泡沫のように静まっては膨らみ、耐え切れなくなっては物陰に潜むのを繰り返した。けれど、完全に消えることは一度もなかった。
 そこへ行けば、あのひとの思っていたことがわかるだろうか。ほんの切れ端でも、あのひとの見たものが見えるだろうか。あのひとの葬儀が終わってから、わたしはずっとそんなことを考えていた。
 あのひとの心にわたしはいなかったけれど、わたしの瞼の裏に居座り続けるあのひとは、いつまでもあの頃のままの姿だ。でも、黒い額縁の中のあのひとは昔よりもふっくらとしていて、白かった肌は少し日に焼けていた。短く切り揃えていた髪は、随分と伸びていた。撫で回したくなるほどやさしかった笑顔も、狡猾さが滲み出た、すり減ったものに変わっていた。
 わたしの知るあのひとは名実共にもういないのだ。遺影を見てから、わたしはひどく混乱していた。道を逆さに歩いているような捻れた感覚だった。常に頭の後ろがぐるぐる回っている感じがして、気持ちが悪かった。
 いつまでもあのひとの夢から醒めないことは、わたしを蝕んでいくだけだ。だから、わたしは行くことにした。あのひとが見た世界をわたしもこの目に焼きつける。あのひとの足跡を、わたしも辿る。忘れるためではない、醒めるために。
 
 
 シンクに溜まっていた食器を洗った。本来ならば仕事に行っている時間帯に一人で家にいるのは、なんだかいけないことをしているみたいでドキドキした。いけないことなんてない、ちゃんと職場には一週間の休暇届を提出したのだ。繁忙期だけれど、最近バイトの子が入ったから何とか仕事は回るだろう。上司にも咎められることはなかった。
 水道水が冷たくて気持ちよかった。電気代をけちって、夏でもなるべくクーラーは使わず、窓を開けたり扇風機を回したりしてやり過ごしていた。冷たい水に手を浸すだけでも、いくらか涼しい気分になれる。
「マジで行くの、北海道」
 昨日の直之の軽蔑するような言い方がまだ耳の奥に残っていた。行くよ、と言うとますます不快感をあらわにした眼差しを寄越してきた。
「飯どうすんの」
「お惣菜でも買って食べて。お米くらいは炊けるでしょう? パックに入ったご飯もあるから」
「ざけんなよ」
 直之は舌打ちをしてソファにどかっと座った。
「お前だけ旅行なんていいご身分だな」
「別に贅沢するわけじゃないよ。お金も少ししか持って行かないし」
「じゃあ、何でいきなり北海道なんか行くんだよ」
「夏の北海道、一度行ってみたかったの」
 直之には言えない。わたしがあのひとの軌跡を辿るためだけに北海道へ行こうとしていることなんて。彼はあのひとのことを知らない。わたしが彼に抱かれながらあのひとの体温を想像していることなど、言えるはずもない。
直之は乱暴にわたしを抱く。獣のよう、と言ったら獣に失礼になるのではないかと思うくらい、乱雑にわたしを扱う。彼の荒れた両手がわたしの乳房を強く揉むとき、わたしはぎゅっと目を瞑りこれがあのひとだったなら、とありもしないことを思う。あのひとと体を重ね合わせたことはおろか、着替えの際の上裸ですらも見たことはなかった。
 あのひとの姿はいつも完璧なまでに涼やかだった。飄々と他人に接するところや、颯爽と構内を歩く姿に、わたしの胸は炭酸水のようにぷちぷちとはじけた。
 直之の前に付き合っていた人に抱かれたときも、あのひとのことを考えた。どろどろとした澱のように気怠い行為も、あのひとを思うことで凌いできた。前の彼は直之よりもずっと優しかったけれど、わたしの淫部をまさぐりながら微笑む姿は、人間の生気を吸い取る亡霊のように見えてならなかった。
 前の彼も直之も、あのひとのように清潔ではなかった。あのひとはいつもパリッと音がしそうな白いシャツを着て、白く細い腕にたくさんの本を抱えていた。大学の図書館で見るあのひとは俯きがちに文字へ視線を落とし、時折ふっと短く息を吐いて読書をしていた。知があることは清潔に映るのだと、わたしは思った。
 キッチンを離れ、昨日詰めたバックパックの中身をもう一度確かめた。替えのコンタクトを忘れていることに気づき、チェックしてよかったとほっとする。わたしはどこか行くときは、必ずと言っていいほど何か忘れる。それはハンカチや靴下など、なくてもどうにかなるもののときもあれば、財布や携帯など忘れると困るもののときもある。忘れっぽい、では済まされないほど重大なものを忘れてしまったこともあった。
 紅茶でも飲もうかと思ったが、せっかく綺麗になったシンクで飲み終わったカップを洗うのが億劫だった。戸棚から取り出しかけたティーパックをそっと戻した。
 ソファに座り、天井を見上げる。LEDの光を見ていると目の奥がくらくらしてきた。北向きのこの部屋は昼間でも薄暗く、曇りや雨の日は電気をつけて過ごすこともある。直之は電気代がもったいないと言うけれど、昼間家にいるのは土日だけだし、そもそも光熱費を払っているのはわたしなので、文句を言われる筋合いはない。
 ここは元々、わたしが一人暮らしをしていた部屋だった。付き合って間もない頃、この部屋に遊びに来た直之が、
「リビング広っ。部屋二つもあんのかよ。贅沢だな。南の洋室、俺の部屋ってことで」
 と言って、居座るようになったのだ。半同棲のような形で二ヶ月ほど過ごし、そのうち自分の家の家賃を払うのがもったいないと言い出して、本格的に同棲を始めた。
 同棲といっても、家賃も光熱費も食費もわたし持ちで、直之は気が向いたときに一万円札を数枚渡してくれるだけだった。
 今頃直之は、バイト先の中華料理屋で愛想を振りまいて接客していることだろう。外面は拍手を送りたくなるくらい素晴らしいのだ。とにかくスマートでよく気がつく。
一緒に外へ出ると老若男女の垣根なく、困っている人がいれば甲斐甲斐しく手伝おうとする。そして、わたしのそばへ戻ってくるとすっと真顔に変わる。うざったそうに小さく舌打ちをすることもある。こんなとき、わたしは直之のどちらの顔を信じていいのかわからなくなる。
 ソファでぼんやりしているだけでは、時間の進みが遅い。まだ十時をまわったばかりだ。飛行機は十四時。空港までは電車で四五分。一時間前に着けばいいから、家を出るまであと二時間以上もある。
 もう出発してしまおうか、と思い立った。家にいてもやることがないし、空港をぶらぶらするのもいい。わたしは部屋着からジーンズとシャツに着替えて、準備を整えた。
 バックパックを背負い、家を出る。じりじりとした日差しがむき出しになった皮膚を焼く。日陰を選んで駅までの道を歩いた。背中に感じるバックパックの重みが、まだ北海道に着いてもいないのに、わたしを立派な旅人に仕立ててくれている気がした。
家に到着するまでが旅だと聞くけれど、始まりは家を出たときからなのだろうか。もしかしたら荷造りをしているときからかもしれない。妙に気持ちがはやっていたから。
 駅でICカードに二千円をチャージして、電車に乗った。空港行きの電車に乗ったことはあるけれど、空港までは行ったことがない。わたしは生まれてから一度も飛行機に乗ったことがなかった。それを言うと直之に、
「お前、狭い世界で生きてんなあ」
 とからかわれたけれど、聞けば直之だって高校の修学旅行のときに乗ったきりだと言う。
 飛行機に乗ったことがないからといって不自由したことはない。でも、何も不自由しないで生きてこられたことが、狭い世界ということなのかもしれない。
 あのひともそんなことを思ったのだろうか。自分の生きてきた世界が狭いと感じて、旅に出たのだろうか。
 あのひとのことを考えると、胸のしこりみたいなものがくるんと疼く。それはほんの小さな振動だけれど、わたしを歩ませるには十分だった。
 電車の窓から、隙間なく積まれたブロックのおもちゃのような街並みが見えた。この風景が続く先にわたしの住むマンションがあって、直之の元いたアパートがあって、前の彼氏の家があって、あのひとが生まれ育った実家がある。それぞれはまったく相関がないが、わたしと交わった人の家という情報を加えると、点が線になるように関係性が浮き上がってくる。
 空港に近づくにつれ、電車の中には大きなボストンバッグやスーツケースを持った人が増えてきた。わたしのようにバックパック一つの人もいる。みんな自分の中に旅立つ理由を隠して飛行機に乗るのだ。わたしと一字一句同じ理由を秘めた人はきっといない。特別なことをしに行くのだ。そう思うと、少しだけ鼓動が速くなった。
 
「広い……」
 それが初めての空港に対する感想だった。天井が高い。店と店の間隔が広い。きょろきょろと目を色んな方向に向けながら歩いていると、誰かにぶつかった。
「すみません」
 咄嗟に謝ったが、人ではなく航空会社のマスコットキャラクターのパネルだった。
 どこに行けばいいのかわからず、インフォメーションで訊ねた。髪の毛をかっちりと一つに束ねた係の女性が、丁寧に教えてくれた。まずは乗る予定の航空会社のカウンターへ行き、チェックインすること。時間が来たら保安検査場を通って、チケットに記載されている搭乗口の前まで行くこと。彼女は笑顔で対応してくれた。不安に波打っていた気持ちが落ち着いた。
行きは、エアドゥという航空会社の飛行機を利用する。羽田と新千歳を結ぶ便だ。あのひとの父親に頼み込んで貸してもらった旅の記録ノートによると、あのひとはエアドゥに乗って北海道まで行ったらしい。
ノートの一ページ目に乱雑な字で、「エアドゥ、ベアドゥ」と書いてある。ダジャレかと思っていたが、飛行機に搭乗してから意味がわかった。ベアドゥというのは、エアドゥのマスコットキャラクターなのだ。機内誌に書いてあった。シロクマをモチーフにしているらしい。あのひともこういうダジャレにくすっと笑う感性があるのかと思うと、つい嬉しくなって口元が緩んだ。
 飛行機が動き出した。窓側の席からは、整備士たちが手を振っている様子が見えた。飛行機はしばらくゆっくりと進み、離陸します、とアナウンスがあった直後にぐんと加速した。わたしは背もたれに張りつき、両足に力を入れた。ずしんと体に重圧がかかり、飛行機が離陸したことを知った。恐る恐る窓の外に目をやると、東京の街が小さく、けれどどこまでも広がっていた。
「わあ……」
 窓に手をつき夢中で見入った。飛行機はぐんぐん高度を上げていく。街はすぐに雲に隠れて見えなくなった。
 ベルトサインが消えると、飲み物が回ってきた。スープを頼むと、白い紙コップに入れて渡された。紙コップをよく見ると、ベアドゥの顔が書いてあった。さらに座席前のカップホルダーに入れると、ベアドゥの顔がちょこんと覗くようになっている。
「かわいい」
 思わず呟いた。あのひとも気づいただろうか。
 いつの間にか飛行機は雲の中を突き抜け、青い空の上を飛んでいた。空と雲が綺麗に二層に分かれている。飛行機に乗らないとこんな景色には出会えなかった。北海道に行く決意をしなければわたしは一生、地上でもがく芋虫のように平坦な暮らしをしていたのだろう。わたしを狭い世界で生きていると揶揄した直之だが、あのときの彼は正しかったのだと思った。
 目を凝らしても青空ばかり覗くので、しばらくの間眠ることにした。機体はさほど揺れず、安心して目を閉じることができた。あのひとの夢を見やしないかと淡い期待を抱いていたが、目が覚めたときには既に着陸した後だったことが残念で、夢どころではなかった。北海道に着陸する瞬間の気持ちを覚えておこうと思っていたのに、叶わなかった。ぐうすかと寝こけていたのだと思うとやるせなさが染み出してきた。
 何はともあれ、無事に北海道へ到着した。荷物は預けなかったので、流れていく荷台を横目に到着ロビーへ出る。待ち合いの椅子にバックパックを下ろし、中から旅ノートを取り出した。「北海道到着、札幌へ、ラーメン」と書かれてある。簡素すぎるが、意味はわかる。
 けれど、わからないことのほうが多かった。まず、札幌への交通手段は何かということ。電車の電光掲示板に吸い寄せられるように近づいて行ったが、ふと横を見るとバスのカウンターもある。あのひとはどちらで札幌まで行ったのだろう。値段の安いほうを選ぶのではと調べてみると、どちらも大して変わらない。こんなところで途方に暮れるのは避けたい。
考えに考えて、結局電車で札幌へ向かうことにした。そのほうが早く着くからだ。あのひとはきっと一刻も早くラーメンを食べたかったに違いない。ノートの「北海道到着、札幌へ、ラーメン」の文字は、一筆で書いたように寸分の狂いなく雑だった。ラーメンを食べることを最初から決めていたのだろうと想像がついた。
 記憶の中のあのひとはいつも一人で昼食を食べていた。きつねうどんを汁が飛ばないようにゆっくりと啜る姿は、とても優雅に見えた。食べ物になんて興味がなさそうな、腹の足しになればそれでいいと思っていそうな雰囲気だったのに、いつからグルメに関心を持つようになったのだろう。
 あの頃のあのひとはとうにいないのだということが、身をもって理解できない。それは思い出せばいつでも鮮明に浮かんでくるからで、実際のあのひととは何の関係もない、ただのわたしの想像でしかないということを何度頭に叩き込んでも感覚が覚えてくれなかった。勝手に記憶は巻き戻り、あの頃を脳内に映し出し、わたしを切なくさせたり懐かしくさせたりもどかしくさせたりする。
 あの頃のあのひとの像と一致しない出来事には違和感を覚えた。わたしの傲慢であることも、あのひとにしてみればいい迷惑であるということもわかってはいるけれど、拭い去れないのだ。
 違和感を拭いに来たのではない。わたしがこうして北海道まではるばるやって来たのは、あのひとが見せる夢から醒めるためだ。違和感があってもいい。そんなの当たり前だ。あのひととわたしの間には二度と埋めることのできない溝、飛び越えることのできない壁があるのだ。大丈夫、忘れてはいない。
 札幌行きの電車に乗ってまず驚いたのは、座席がボックス型だったことだ。しかも全席。東京の都心ではまず見られない。乗客はまばらだったので、真ん中あたりの席に座り窓側に寄った。
 電車が動き出してしばらくは地下なのかトンネルなのか、真っ暗で何も見えないところを走っていたが、次の駅のアナウンスが聞こえたあたりで急に視界が明るくなった。窓越しに広がる景色を見て、ああ、わたしは北海道に来たのだ、とこのとき初めて実感した。
 札幌までは電車で四十分ほどらしい。途中、イメージの中の北海道とぴたりと一致するような広大な田園風景が見えて、気分が高揚した。再び北海道へ来た実感が込み上げてくる。
 期待に胸を膨らませ、旅ノートを開いた。あのひとの文字を親指でそっと撫でる。ここで、二つ目のわからないことを発見する。わたしはノートの「ラーメン」の文字を凝視した。どこの店で食べたのだろう。味は多分、味噌であるはずだ。札幌でラーメンと言えば味噌なのだと事前に調べたネットの記事に書いてあった。ちなみに函館は塩、旭川は醤油なのだとか。
 札幌ラーメンの店なんて、気が遠くなるほどたくさんあるに違いない。どうせならあのひとが行ったのと同じ店で食べたい。けれどそれを確認するすべはもうどこにもないのだ。
 早くも泣きそうな気持ちになった。あのひとの軌跡を辿りに来たのに、こんなところで躓くとは。放っておくとあのひとのことを責めてしまいそうだ。もう少し丁寧にノートに記せと。
けれど、死んでしまった人のことを責めても仕方ない。気を取り直して、スマホで「札幌ラーメン ランキング」で調べて一位の店に行くことにした。あのひとがグルメに興味を持つようになったのなら、そういうミーハーな検索をするだろうと踏んだのだ。
 そうこうしているうちに、札幌に着いた。わたしがノートを見て考えごとをしている間に、電車の中は乗客で溢れかえっていた。隣の席に荷物を置いていたせいで、座りたくても座れない人がいたかもしれないと思うと、申し訳ない気持ちになった。わたしは集中するあまりつい周りが見えなくなってしまうことがある。
 後ろの人の大きなスーツケースに押し出されるように、ホームに降り立つ。夏だというのに、ひんやりとした空気が肌を包んだ。札幌も年々夏の気温が上がっていると聞くけれど、今日は涼しい日らしい。
 ランキング一位の店に行こうと決めたものの、ランキングサイトがたくさんありすぎて、しかもサイトによって一位の店が違うので困り果ててしまった。情報の海で溺れているような感覚に陥った。途方もなく広い海。投げ出されたわたしは、見渡す限りに青く波打つ海原を前に、右も左もわからない赤ん坊同然の存在だ。ただでさえ知らない土地、慣れない旅なのだ。
 途端、面倒になった。調べたら、札幌駅の駅ビルにラーメン共和国というラーメン屋が軒を連ねるスポットがあるらしい。人気店も入っていて、昼時には長蛇の列ができることもあるのだとか。もうそこでいい、とにかくラーメンを食べよう。昼ご飯を食べていなかったせいか、お腹も空いていた。
 東改札を出て、地下へ向かうエスカレーターに乗る。あのひとの軌跡を辿る旅なんて最初から無理があったのかもしれないと、ふと思った。あのひとの遺したノートには旅の詳細なんて書かれておらず、断片を切り取ったような地名や単語しか記されていないのだ。あとはこちらの想像で補うしかない。それは果たして、軌跡を辿っていると言えるのだろうか。ほぼ無計画と言っても過言ではない気がする。
 やっぱりわたしは詰めが甘い。昔から、何をするにも完璧にこなせたことがなかった。そのくせ諦めだけは早くて、やりかけの事柄ががらくたのように積み重なっていった。
 札幌駅の地下街は妙に入り組んでいて、すぐには目的の施設であるエスタが見つからなかった。エスカレーターを降りて左へ行ったのが悪かった。歩けど歩けど、それらしき入り口が見当たらない。ラーメン屋群はエスタの十階であるはずなのに、エレベーターもエスカレーターも六階より先には行かないようだ。終いには映画館まで来てしまった。
 映画の予告ポスターの前にいたカップルにエスタまでの行き方を聞くと、親切に途中まで案内してくれ、ようやくラーメン共和国に辿り着いた。ゆうに一時間近くは彷徨っていた。
 十八時を過ぎているからちょうどご飯時だろうと思っていたけれど、どの店も列を作るほど混んではいなかった。どこに入ろうか悩んだが、白樺山荘という店に入ることにした。そこが一番客数が多く、人気店に見えたからだ。席もカウンターが一席空いていた。
 味噌ラーメンを注文し、待っている間にスマホでランキングを調べた。トップページに出てきたサイトによると、どうやら白樺山荘は第二位らしい。第一位は吉山商店の焙煎ごま味噌ラーメンだったが、ごま味噌は札幌ラーメンという感じがあまりしないので白樺山荘でよかったと思った。
 ラーメンが運ばれてきた。まずはスープから飲む。白味噌なのだろうか、ふわりとやさしい味が舌全体に染み込んでいく。次いで麺も啜る。若干太めの弾力のある麺が、豚骨ベースの濃いスープとよく絡んでいる。美味しい。これが札幌ラーメンか、と心の中で呟く。
ますますあのひとが訪れた店を知りたくなった。あのひとが食べたのと同じものを食べれば、あのひとの胸の奥底の核心めいた部分に触れることができる気がするのに。
 麺と具は完食し、スープは半分ほど飲んで店を出た。今夜の泊まるホテルを探さなければならなかった。旅ノートには当然、あのひとがどこに泊まったかなんて記されていない。あのひとならばどうするだろうかと思考を巡らせてみるも、漠然としすぎてちっとも考えがまとまらなかった。
 どうせ無理のある旅ならば、ノートに書いてあること以外は適当にやればいいではないか。完璧にできなくたって咎める人はいないのだ。
 いや、違う。たとえ大勢の人に許されてもただ一人、わたしがわたしを許さない。考えて考えて考え尽くすのだ。あのひとが取ったであろう行動、食べたであろう料理、行ったであろう場所。その一つ一つを心が悲鳴を上げるまで考え続けるのだ。あのひとが見せる夢から醒めるために。それがこの旅の目的だったはずだ。はき違えてはいけない。
 遺影の中のあのひとの笑みを思い浮かべる。会っていなかった十年の日々が、あのひとの清潔な笑顔まで変えてしまった。それでもいいと言えるほど、わたしは十年の間のあのひとを知らない。大学の頃でさえ、とても親密であるとは言えなかった。あのひとはいつもわたしのいない方向を見ていた。わたしはあのひとの背中や横顔をいつまでも見つめていたのだった。
 
 
 あのひとは、鳥を殺したんだ、と言っていた。昼下がりの学食の裏庭で、スマホを耳に当て声をひそめるようにして誰かと喋っていた。
 カラスじゃない、小鳥だよ。
 スズメよりは大きかったけど、見たことない模様だったなあ。
 怪我をしたのか道端で動けずにいたから、思いっきり踏んでやったよ。
 わたしは息を飲んだ。壁の向こうに隠れて震えていた。わたしこそか弱い小鳥のようだった。あのひとは足元の小石を蹴って壁に当てては、跳ね返ってきたその小石をぐりぐりと踵で踏み潰していた。小鳥もそうやって踏み殺したのかと思うと、心臓が早鐘を打った。
 何かの聞き間違いかと思った。例えば、誰かの言っていたことを真似ただけだとか、いつものキャラと違うことを言うゲームをしていたとか。でもあのひとの表情を見て、確信してしまった。あのひとは、小鳥を殺した。
 排水溝から溢れくる濁水のように、あのひとの顔には下劣な笑みが広がっていた。殺したのは小鳥一匹なのに、あのひとはまるで憎い奴でもなぶり殺したかのように大仰な話し方をしていた。
 小鳥だって、一つの命には変わりない。たかが小鳥一匹と軽視したことに、あのひとと同じものを自分の中に見た気がした。
 あのひとの純烈で透き通ったイメージを塗り替えなければならなかった。やさしい笑顔や颯爽とした歩き姿はそのままでも、あのひとはわたしが想像しているような好ましい人物ではない。
 けれど、わたしはさほど落ち込みはしなかった。自分の想い人が平気で命を踏みにじるような人だったというのに、それも一つの個性くらいにしか思わなかった。電話を聞いてしまったときは驚いたけれど、終わる頃には平常心を取り戻していた。
 それよりも、あのひとの表情が鮮明に脳裏に焼きついていた。刑事ドラマの悪人は皆嘘の顔をしている。俳優の素の人柄がどうしても滲み出てしまう。本当に性根が曲がっている人というのは、常に清潔なのだ。嘘偽りのない純粋な心をもって残酷なことをする。あまりにも鮮やかに。あのひとはどこまでも清潔だった。
 
 
 札幌駅前にあるビジネルホテルのシングルルームのベッドで、わたしは昔の記憶に浸っていた。仰向けになり手を天井に向かって伸ばすと、指の間からあの頃の情景が立ちのぼってくるようだった。
 起き上がりカーテンを開ける。十階の窓からは街の明かりがよく見えた。信号が青に変わり、赤いテールランプの車たちが一斉に走り出す。三つ向こうの信号でまた止まる。
 バックパックから旅ノートを取り出した。明日は電車で小樽まで行って、あのひとの知り合いに会う。小樽駅近くでカフェを営んでいるらしい。アポなしで会えるだろうか。でも連絡を取ったとして、何から話せばいいのかわからない。直接会ったほうが向き合えそうな気がする。
 あのひとが最期に会った人なのだ。どんな関係なのかは知らないが、わたしも会ってみたいと思った。
「二日目小樽へ、海沿いを走る電車、駅近くのアミューズカフェで森田と会う、森田店長似合いすぎた(笑)、カモミールティーサービス」
と日記には記されていた。今日のメモよりは遥かにわかりやすい。明日は小樽に泊まって、三日目にいよいよオホーツク方面まで移動する。
 ノートをお腹の上に乗せ、再び仰向けに寝転がった。スマホで小樽駅までのルートを調べる。あのひとの歩いたかもしれない道や目にしたであろう建物などを思い浮かべながら、わたしはゆっくりと目を閉じた。
 
 翌朝、八時に目が覚めた。本来ならばとっくに起きて通勤している時間帯だ。混雑した電車の中で乗客に押し潰されている自分を想像し、ベッドの中でうんと伸びをした。
 ホテルを九時にチェックアウトし、駅へ向かった。駅ビル内のスタバでソイラテとキッシュを注文し、窓側の席で食べた。外はよく晴れていた。雲一つなく、日差しが強い。今日は暑くなりそうだ。スマホのアプリで天気予報を見ると、現在の気温は二十七度、最高気温は三十度とあった。
 電車の時間を確認して、十分前にはスタバを後にした。ホームで電車を待ち、滑り込んで来た快速エアポートに乗る。これに乗れば、小樽駅までは三五分ほどで行けるらしい。
 海はどの辺りから見えるのだろう。あのひとのノートには、海沿いを走る電車、と書かれていた。発車してしばらくは街並みが続いた。座席は昨日とは違い横型だった。電車の揺れに合わせ、海はまだかとそわそわした気持ちで景色を眺める。見たことがないわけでもないのに、どうしてこんなに気持ちがはやるのだろうと不思議に思った。
 銭函という駅を過ぎたあたりで、家々の向こうに青が広がった。
「海……」
 隣に座っていたおばあさんが、わたしよりも先に呟いた。乗客たちは一斉にスマホやカメラを海に向け写真を撮り始めた。水平線がくっきりと浮かび上がっていた。
電車は海に身を委ねるように傾き、渚の様子が見えた。海水浴をしている人たちが点々と波間に浮かんでいた。砂浜もカラフルなビーンズを敷き詰めたように賑やかだった。
 これはオホーツク海ではない、日本海だ。あのひとが沈んだ海ではないから、目を開けていることができるのかもしれない。初めて見る日本海は深い青色をしていた。絵に描くとすると、藍色や黒も混ぜるのだろうか。太平洋のエメラルドグリーンとは違う性質の、例えば苦悩や哀愁を表しているような、重たい色に見えた。
 通り過ぎてしまえば、電車から見た日本海は一つの風景としてわたしの記憶の中に貼りつけられた。期待はずれだったわけではない、むしろ圧巻の景色だった。けれど、海は海でしかなく、わたしの足を引っ張ることも背中を押すこともない。海がどこまでも広がれば広がるほど、終わりなく続いていくほど、わたしの感受性は遠く離れて行く。離れたところでぽつんと置き去りにされる。
 息が苦しくなった。思わずぎゅっと目を瞑る。それとほぼ同時に、ごおっと音がして窓が揺れた。トンネルに入ったようだ。抜けた後、電車は緩やかに減速し、小樽築港駅に到着したとのアナウンスが流れた。そっと目を開けると海はもうどこにもなく、ホームに降りた人たちがぞろぞろと階段へ向かう姿が見えた。
 そこから二駅先の小樽駅で電車を降りた。あのひとが降り立った街。昨日の札幌ではあのひとはどちらの改札から出たのかも、どの店でラーメンを食べたのかもわからなかった。でも、小樽駅は改札が一つしかない。この改札を通って、坂の下に広がる小樽の街並みを見て、アミューズカフェに向かったのだ。初めてあのひとの軌跡を十分に辿れている気がした。
 スマホの地図アプリにアミューズカフェと入力する。駅前の信号を左に折れ、三つ目の通りを曲がり、坂を登ったところにあるらしい。右手にスマホを持って歩き出す。
 坂は思ったよりも勾配が急だった。一歩踏み出すたびに額から汗がふき出してくる。バックパックが平地を歩いているときより重く感じる。
あのひとの前で、持っている鞄がだんだん重く感じるようになることを「こなきじじいが憑いている」と表現したことがある。
「こなきじじい?」
「ゲゲゲの鬼太郎、知りませんか? 出てくるんですよ、こなきじじいって言う妖怪が」
「ああ、わかった。背中に憑いて重くなる奴だろう」
「そうです、それです」
「琴子ちゃん、面白いこと考えるね。確かに俺のリュックの中にもこなきじじいが入ってるのかもな」
 そう言って、あのひとはリュックを背負い直してみせた。わたしとあのひとは、サークルでバーベキューをしたときの買い出し班だった。二人で食料や備品の詰まったリュックを背負い、夕暮れの道を歩いた。背中は重かったけれど、足取りはマシュマロの上を歩いているように軽かった。
 琴子ちゃん、とちゃん付けで呼ばれることが心地よかった。このときほど自分の名前を誇らしく思ったことはない。わたしは琴子ちゃん、という響きをとても気に入っていた。あのひとのやや高めの、でも時折低く響く声で呼ばれると、骨が軋むような痛みと逃れようのない快感が織り混ざって込み上げてきた。
 あのひとの声を今でも覚えている。あのひとの目をいっぱいに細めて笑う顔も。忘れていないことと、忘れられないことは違う。わたしはただ鼓膜の奥にあのひとの声を、脳裏にあのひとの顔をあの頃のまま正確に思い浮かべることができるだけだ。でも、それが何だというのだ。あのひとの現実は二度と動き出さないというのに。
 坂を登り切らない中途半端な斜面に、アミューズカフェはあった。小ぶりな営業中の看板が扉の把手にぶら下がっていた。
 ドアを開けると、カロロロンとドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
 二十代前半くらいの長い髪を二つに束ねた店員が、カウンターから出てわたしのもとへやって来た。
「おひとり様ですか? お好きな席にどうぞ」
 人差し指を立てる仕草が可愛らしい。わたしはそわそわとした気持ちで窓側の二人がけの席に座った。向かいの席にバックパックを置く。
 店内はシルバーを基調としていて、椅子もテーブルもブリキのように加工されていた。カウンター席が五つ、窓に沿うように二人がけの席が四つ。小ぢんまりとしたおもちゃ箱のようなカフェだった。
 店員が水とおしぼりとメニューを持って来た。この人が森田さんなのだろうか。でも店長には見えない。アルバイトの女の子といったところだろう。
「お決まりになりましたらお呼びください」
 そう言って去って行こうとする彼女を、あの、と呼び止める。
「はい」
 彼女はメモとペンをエプロンのポケットから取り出し、わたしに向き直る。
「あの、森田、さんはいらっしゃいますか」
 喉がカラカラに乾涸びていた。水を先に飲めばよかった。わたしの声はひどくしゃがれていた。
 彼女は一瞬目を見開いてわたしを見たが、すぐに笑顔になり、
「店長ですね、少々お待ちください」
 と礼儀正しく頭を下げ、くるりと背を向けた。わたしはキッチンに消えていく彼女の華奢な背中を、祈るような気持ちで見ていた。
 しばらくして、奥から肌の浅黒い大柄な男性が出てきた。彼のつけている黄色いエプロンがやけに小さく見えた。わたしと目が合うと彼は軽く会釈をして、
「どうも、いらっしゃいませ。私が森田ですが」
 と言った。表情は穏やかだが、一握りの警戒心も感じ取れた。わたしが何者であるのか訝っているのだろう。
 彼が近くまで来ると、わたしは立ち上がって考えていた台詞を一息に喋った。
「初めまして、秋月と申します。久原育馬の大学の後輩なんですが、森田さんは久原先輩とお知り合いだと聞きました。話すと長くなるのですが、一度お会いしてみたいと思いまして、今日は来ました」
 あのひとの名前を出すと森田さんは鼻の付け根に皺を寄せて笑った。
「あいつの後輩さんでしたか」
「はい。あの、今お時間はありますか? 少しお話したいのですが」
「もちろんです。座ってもいいですか?」
 森田さんはバックパックに目をやって言った。わたしは慌てて向かいの席から床にバックパックを下ろした。
 森田さんと向かい合うとなかなかに圧迫感があった。わたしにはかなり余裕があるが、彼にこの椅子は小さすぎるのではないかと思った。現に、脚がぎしぎしと音を立てている。
「それで、育馬の後輩さんがどうして私のところに?」
 世間話もそこそこに、森田さんは本題に入った。わたしは何度もつっかえながら、あのひととの関係やあのひとが書いた旅ノートのこと、あのひとが見た景色を見たくて自分も北海道まで来たことなどを話した。けれど、あのひとが死んだことは言い出せなかった。感触からして、森田さんはあのひとの死については知らないようだった。彼はまっすぐにわたしの目を見据えて、相槌を打ちながら話を聞いてくれていた。わたしのほうが時折彼から目をそらした。茶色がかった澄んだ瞳があのひとに似ているような気がして、直視できなかった。
 一通り説明した後、彼は腕組みをして椅子の背にもたれかかった。
「そうかあ、育馬にこんな素敵な恋人がいたとはな」
 トンチンカンなことを言う。
「え、恋人……? 違いますよ、わたしはただの後輩です」
「そうなんですか? 育馬のことが好きで追っかけて来たんじゃ?」
「まあそうですけど、完全にわたしの片思いです。恋人なんかじゃありません。それに、告白してフラれましたし」
「何だ育馬の奴、もったいない」
「森田さんは久原先輩とどういった関係なんですか」
「幼馴染ですよ。幼稚園からの仲でね。高校で私が北海道へ引っ越しするまで、いつもつるんでましてねえ」
 森田さんは懐かしそうに目を細めた。
「それからしばらく会ってなかったけど、去年突然訪ねて来てね。俺も北海道に住むからって言って、ハーブティーだけ飲んで帰って行きましたよ。北海道のどの辺に住むつもりなのかなあ、あいつ」
 わたしは言葉を失った。あのひとは北海道に住むつもりだった……? でも、あのひとはオホーツクの海に飛び込んで死んだのだ。
「あの、久原先輩が、本当にそう言ったんですか? 北海道に住むって」
「ああ、言ってましたよ。去年来たのはその下見だって。今頃はもう移住したのかなあ」
 嘘だ。あのひとは死ぬために北海道へ来たのだ。そうじゃなかったら、真夜中の海に飛び込んだりしない。
 でも、もし森田さんが言うように、あのひとは北海道に住むつもりだったのなら。死んでしまったのは事故で、本当はただ海を見に行っただけだったのなら。
海を見に行っただけ? 真夜中に?
 わからない、わからない。もう何も考えたくない。
「秋月さん? 大丈夫ですか」
 森田さんの声に、はっと目を開ける。知らず知らずのうちに思いきり瞑っていたようだ。心配そうに眉を顰める彼の顔があった。
「大丈夫です、すみません」
 取り繕うように水を一口飲んだ。
 それから、森田さんとあのひとの思い出話や他愛のない話をした。何か飲み物をサービスしてくれると言うので、迷わずカモミールティーを頼んだ。森田さんは、
「あいつもそれ、飲んでたよ」
 と笑った。
 途中でお客さんが入って来たので、森田さんはキッチンに戻って行った。わたしは窓の外を眺めながら、カモミールティーをちびちびと飲んだ。遠くの空にぶ厚い雲が浮かんでいた。
 再び森田さんがわたしの席にやって来たとき、ちょうどカモミールティーを飲み干したところだった。空のカップが、お暇するべきだと告げていた。わたしは立ち上がって、
「今日はありがとうございました。お話しできてよかったです。ご馳走様でした」
 と頭を下げた。こちらこそ、と森田さんは笑った。
 森田さんは太い腕を伸ばし、ドアを開けてくれた。カウベルがカロリンと鳴る。店の中には客がいたので言い出せなかったけれど、今だと思い彼に向き直った。
「あの」
「はい」
「実は、久原先輩は、亡くなったんです。彼のお葬式にも行きました。旅ノートは彼の親御さんに貸していただいたものなんです。ごめんなさい、なかなか言い出せなくて」
 声が震えた。喉の奥がちりちりと痛んだ。森田さんの顔を正面から見ることができず、下を向いて言った。
「ごめんなさい」
 森田さんが言った。謝られる意味がわからなくて、頭を上げ彼の顔を見た。今度は彼が下を向き、苦悶の表情を浮かべる番だった。
「薄々気づいてました。あれから育馬に連絡しても一向に返ってこないし、あなたの表情からも何となく、あいつによくないことが起こったのかもしれないと思いました」
 そう言って森田さんは手のひらで額を押さえた。彼の声もわたし以上に震えていた。
「そうか、死んだのか。育馬……」
 あのひとの名前を口にするときだけ、森田さんの声はぐわんと歪んだ。嗚咽が厚い唇の間から漏れてくる。涙は大きな手で目を覆っているせいで見えなかった。でも彼は泣いていた。
 別れ際、森田さんはわたしに「また来てください」と言った。切実な響きが声にこもっていた。わたしは頷いて、彼に背を向けた。森田さんの視線を背中に感じていたけれど、わたしは一度も振り向かなかった。
 胸の奥がざわざわと葉擦れのような音を立てていた。苦々しい気持ちを払うように、わたしは残りの坂を駆け下りた。
 
 朝よりも気温が上がっていた。駅前のホテルを取っていたがチェックインは十五時からで、今はまだ十三時過ぎだった。荷物だけでも預かってもらおうと、とりあえずホテルに向かった。
 この後の予定について、旅ノートには「小樽観光」としか書かれていない。またもや迷子になってしまった気分になる。完全に丸投げだ。けれど、あのひとの大雑把さにも大分慣れてきた。あのひとの足取りに思考を巡らせるのは案外楽しかった。楽しむ余裕が出てきた。
 ホテルでバックパックを下ろし、中からボディバッグを引っ張り出して身につけた。財布とスマホと旅ノートのみ持つことにし、残りはすべて預けた。番号札を受け取り、ボディバッグの前ポケットにしまう。
 ロビーに置いてあった小樽観光のパンフレットを一枚もらい、ページをめくる。運河、水族館、天狗山ロープウェイ、オルゴール館。小樽には見どころがたくさんあるようだ。ここから一番近い運河に行ってみることにする。
 カモメが頭上を飛んでいた。海が近いからだろう。わたしはカモメとウミネコの違いがいまいちわからない。もしかしたら今飛んでいるのはウミネコかもしれないけれど、見分けがつかないからすべてまとめてカモメということにする。生物学者が聞いたら怒り出しそうだ。
 パンフレットの地図によると、運河は坂道を下った先にあるらしい。アミューズカフェに行くときも急な坂道だったが、小樽は坂が多い街だと書いてある。お年寄りなどは大変だろうなと思う。行きはよいよい、帰りはこわい、だ。ちなみに、北海道弁に「こわい」という言葉があり、意味は「辛い」とか「しんどい」だそうだ。通りゃんせの歌詞の帰りはこわい、という部分はもしかしたら北海道弁なのだろうか。スマホで調べようとしたが、やめておいた。今度ふと思い出したときにでも調べればいい。
 運河には観光客がたくさんいた。一人で来ている人もちらほらいたが、多くはカップルや友達グループなど連れがいた。皆一様にスマホやカメラを自分たちに向けて、運河をバックに写真を撮っている。
 石段を降り、手すりに両手をついて運河を見下ろしていると、老夫婦に声をかけられた。
「あの、写真を撮っていただけませんか」
「あ、はい、いいですよ」
 おじいさんに渡されたのは少し古い型のコンパクトなデジカメだった。二人は寄り添い運河に背を向けて立った。水面がキラキラと光を集めていた。カメラ越しの二人は柔らかく微笑んでいた。
「撮りますよ。はい、チーズ」
 死語かとも思ったが、他に何と言えばいいのか適当な言葉が見当たらなくて、使い慣れている台詞と共にシャッターを押した。ピピ、とデジカメが鳴って、画面に撮った写真が映し出される。
「確認してもらっていいですか」
 おじいさんにデジカメを返す。二人は顔を寄せ合いモニターを覗き込んだ。
「ばっちりです。ありがとう」
 おじいさんが笑うと目尻に深い皺が刻まれた。おばあさんのほうを見ると、同じ顔で頷いていた。
 離れて行く二人の背中を見つめる。歩くときも貝殻のようにぴたりとくっついていた。きっと選ばれたもの同士なんだな、と思った。何の違和感もなく、二人の空気は溶け合っていた。あんなふうにお互いの持つ空気が染み出して混ざって穏やかな色を作るには、どれくらいの年月が必要なのだろう。わたしは誰かとそんな関係になれるのだろうか。
 あのひとの顔が浮かぶ。わたしは今付き合っている直之よりも先にあのひとの顔が浮かんだことを悲しく思った。いや、厳密に言えば悲しいとも違う。本当は今の今まで直之のことを忘れていた。家では毎日顔を合わせているのに。死んだ人にすら、十年も会っていなかった人にすら負ける直之が不憫に思えた。
 運河沿いには「似顔絵、描きます」という看板を掲げた絵描きや、自分で撮った写真を売っている人などが三組ほどいた。彼らの前に客はおらず、絵描きが暇そうにあくびをしていた。
 「北海道一周!」のプラカードを立てかけて写真を売っている若者の前で、わたしは立ち止まった。彼はよく日に焼け、森田さんほどではないもののがっちりとした体つきをしていた。写真は色ごとに並べられており、マジックアワーの紫から海の青、草原の緑、ひまわりの黄色、最後は夕日の赤と、虹のようなグラデーションになっていた。
 彼はわたしに気づき、
「どうぞ、ゆっくり見て行ってください」
 と白い歯を見せて笑った。
「あの、オホーツクの海の写真はありますか」
「ああ、ありますよ、宗谷岬で撮った夕暮れ時の」
 彼は赤のコーナーから写真を一枚手に取り、わたしに見せた。
「あ、そっちじゃなくて、根室のほうの海の写真はありますか」
「根室なら、納沙布岬の朝日ですね」
 オレンジと黄色の中間あたりから一枚取る。
「根室は北海道の最東端だから、朝日が一番早く昇るんですよ」
「朝日……じゃなくて、あの、真夜中の暗いオホーツク海の写真は」
 それまで笑顔で対応してくれていた彼の顔が、戸惑ったように硬くなった。何を言っているんだこの女は、とでも思っていそうな彼の表情に、わたしははっと我に返った。
「真夜中、ですか。それはちょっとないですね」
「そうですよね、すみません。こちらの朝日の写真、一枚ください」
 彼に百円玉を二枚渡し、もぎ取るように写真を受け取って、わたしは素早くその場を離れた。心臓がばくばくと暴れていた。
 交差点を渡り、運河から十分に距離があるところで歩みを止めた。呼吸を落ち着かせ、握っていた手を開いて写真を見る。右の上端がくしゃくしゃによれていた。
 水平線から黄金の朝日が昇ってくるところだった。わたしは思わず写真を真っ二つに破いた。半分になった写真を重ねてまた破る。四枚を重ねて八枚に、十六枚に、三十二枚に、破る破る破る。
花びらのように小さくなったそれを、吹いてきた風に乗せて飛ばした。それはすぐにばらばらになって跡形もなくなった。
 あのひとは朝日が昇る前に、岬から飛び降りたのだ。清々しい朝の空気、希望の象徴のような朝日が昇る頃には、きっとあのひとはもう……。
 
【つづく】