目を疑うほど典型的な非合理的思考を目の当たりにした。

元プロ野球選手で野球解説者の張本勲氏の発言だ。

全国高校野球選手権、つまり甲子園への出場をかけた岩手県大会でプロも注目している投手・大船渡高校の佐々木朗希選手を監督の意向によって登板させなかったことがあった。

それに対して張本氏は、監督を痛烈批判した。

曰く

「最近のスポーツ界でね、私はこれが一番残念だったと思いますね。32歳の監督(大船渡・国保陽平監督)でね、若いから一番苦労したと思いますがね、絶対、投げさすべきなんですよ。前の日にね、129(球)投げてますからね。大体、(準決勝までの)予選で4回しか投げてないんですよ。合計で430、450(球)くらいしか投げてないのよ。昨年、吉田輝星(金足農)が800(球)くらい投げているんですよ、1人で」

「あれはダメだよ。一生に1回の勝負でね。いろいろ言い訳はありますけど、投げさせなきゃ。その前(前日の準決勝)の129球? それがどうした。歴史の大投手たちはみんな投げてますよ」

「監督と佐々木君のチームじゃないんだから」
「ケガが怖かったら、スポーツは辞めたほうがいい。将来を考えたら投げさせた方がいいんですよ」
「楽させちゃダメですよ、スポーツ選手は」


さらに、島根・開星高校野球部で過去に春夏合わせ8度甲子園に導いた元監督の野々村直通氏はこんな発言もした。

「投げさせないことがあり得ない」

 「(甲子園まで)あと一つの決勝戦で、故障もまだしてない状態だった。肩が壊れるかもしれない、壊れそうはしょっちゅうある。周りが限界を決めてしまうが、指導者は毎日見ているから“お前は限界だと思っているけど、まだやれるよ”と教えるのも教育なんです。“先生できました。僕あきらめていたけど、もう一つ上のことができました”っていうのが進歩なんです。このことを体験させることも教育なんです」


なんとまあ、あきれる話だ。

年寄りに対して「合理的発言ができる」というイメージはないが、ここまでひどいのはなかなか珍しい。

そもそも、最近の医学では「肩は消耗品。一生に投げられる球数は決まっている」というのが一般的らしい。

そもそも、彼が記録した163kmと言う球速を投げるのはリスクが高いらしい。

参考記事「大船渡・佐々木に“163kmのリスク” TJ手術の権威が警鐘

それを考慮すれば張本、野々村両氏の発言は無理があるのだが、ここでは科学的根拠どうこうより、それ以前の問題として、論理的な思考をする上での問題点をあげていこう。

まず「歴史の大投手はみんな投げてますよ」と言うけれど、証明するという観点からすると、この考え方はまずい。

その「歴史の大投手」と言うのがだれを指すのかわからないが、「そういう人がいる」と上げただけでは意味がない。

もう一つ、大事な例をあげなければ証明とはならない。

それは、

「たくさん投げて壊れた投手がいないこと」

だ。

こういうものを「反事実」と言う。「証明したいこととは反対の事実」と言う意味だ。

もしも、大成した投手以上に壊れた投手がはるかに多ければその「歴史の大投手」とはごくまれな例外と言うことになる。

では、多投して壊れた例と言うと、以下の記事に詳しい。

張本勲の「佐々木不登板批判」に募る強い違和感

この記事で紹介されている名前を以下に列挙すると、

済美高校・安楽智大投手
興南高校・島袋洋奨投手
早稲田実業学校・斎藤佑樹投手

また、プロ野球選手で高い成績を収めた、ダルビッシュ有、松坂大輔、田中将大と言った名前をあげているが、メジャー行きの後故障をした事実にも触れている。

この記事の態度こそ、真に合理的な思考である。さらに、これらに触れる前に「因果関係は立証できないものの」と一言注意をしている。

すがすがしいほど合理的だ。

個人的に「登板過多」と言われて真っ先に思い出されるのは中日ドラゴンズ・浅尾拓也投手だ。

彼は、落合監督時代の2010年に球団記録を更新する72試合に登板し、ホールドとホールドポイントのシーズン日本新記録達成、連続試合ホールドポイントの日本記録達成とまさに金字塔を打ち立てた。

当時は今よりは熱心に野球を見ていたので、その細身の体から投げ込まれる剛速球をワクワクしながら見ていた。

だが、2012年以降調子を大きく崩し、故障にも悩まされ、2015年は36試合の登板で1勝1敗3セーブ16ホールドと一定の成績を上げた以外は目立った活躍ができず、2018年に引退した。

かつてファンだった身としては悲しい話だ。

このように、張本氏には残念だが、「反事実」をいくつか挙げられる。
自説を証明したいのなら、これらにも真摯な態度で(つまり、データを示して)答えるべきだ。

さらに付け加えて言おう。

彼は「監督と佐々木君のチームじゃないんだから」と発言している。

しかし、もし本当にこう思っているのなら、登板回避を批判する理由は生まれない。

なぜなら「佐々木投手抜きでも戦える力があった」と考える方が論理的には自然だからだ。

二人のチームじゃないと言いつつ、佐々木投手抜きでは勝てないかのように批判する行為が、佐々木投手のワンマンチームであると考えていることを露呈してしまっている。

悲しい矛盾だ。

大船渡高校が本当に「監督と佐々木君のチームじゃない」のなら、このチームは持てる戦力を出しつくした。佐々木投手が投げられなかったのは残念だが、この時投げられる状態じゃなかったのなら、当時戦力として数えることはできなかった。そのうえで勝負に挑み、そして敗北した。

チームとしての敗北だ。

張本氏の考えに沿うのなら、これが適切だ。
つまり、彼のコメントは正しくはこうなる。

「佐々木君が投げられなかったのは残念ですがね、彼だけのチームじゃないんでね、そのうえで負けたわけですから、星稜高校の方が一枚上手だったということでしょう」

そうなのだ。

これは、張本氏だけじゃなく、この件に関してコメントしている多くの人に言えることなのだが、「星稜高校をたたえよう」という発想がほとんどない。

佐々木投手は確かに優秀なのかもしれない。だが、この試合のスコアはどうだったか?

2-12だ。

12点も取られている。

「佐々木君が投げていたらこれが0点だった」

と言う想像はさすがに無理がある。

さらに言うと、大船渡高校のメンバーを責めるようで心苦しいが、2点しか取れていない。

これで

「佐々木投手が投げていたら勝っていた」

という結論は信じがたい。

ここはやはり、星稜高校と言うチームが強かったと讃える方が自然であり、いやな思いをする人もいないのではないだろうか。

ましてや、野球の先達を気取っている人間ならなおさらだ。(この記事を書き上げている途中に、甲子園の全日程が終了した。星稜高校は堂々の準優勝。やはり星稜は強かった!)

次に野々村氏の非論理的部分をあげておこう。

特に変なのは以下の部分だ。

指導者は毎日見ているから“お前は限界だと思っているけど、まだやれるよ”と教えるのも教育なんです。

だが、その「毎日見ている」指導者(つまり国保監督)が「無理だ」と判断して投げさせなかったのではないか。

こんな風に思うのなら、

「毎日見ている指導者が『無理だ』と判断したのなら、無理だったのでしょうね」

と考える方が、彼の論理に沿っている。

いったい誰が「投げさせない」という判断を下したと思っているのだろう?

発言それ自体に矛盾が存在する。

張本、野村両氏の発言はどれも合理的に考えるうえでやってはいけないことだ。

張本氏は「自説に都合のいい事実のみを集めている」
野々村氏は「論理自体が矛盾している」

非合理の見本市と言った感じだ。

とはいえ、だからこそ役に立っているところもある。

このように俺のような人間がネタにして、「こういう思考はやってはいけない」と示せることだ。

非常にわかりやすい『悪い見本』である。

ダルビッシュ有は

「シェンロンが一つ願いこと叶えてあげるって言ってきたら迷いなくこのコーナーを消してくださいと言う」

とツイートして話題になったが、俺は残していいと思う。正しい論理的思考を身に着けるうえで、このように、人間がうっかりやってしまう非合理的思考の例を学ぶのには大いに意味がある。

張本勲氏ほか、「老害」などと称される人々は、これからもどんどん発言していってほしい。

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