今回の騒ぎを見て、いろいろな人がいろいろな意見を述べていたが、どうも細かいところで多くの勘違いをしているように感じた。

誤った知識や認識を持っていると言い換えてもいい。

「『ばれなきゃイカサマじゃない』なんて言うのはイカサマ師の言い分だ!」

などという意見を見た。

こういう意見を聞くと、「ああ、勘違いしているんだなあ」と思わざるを得ない。

「ばれなきゃイカサマじゃない」というのは実は、「イカサマ師の言い分」でも何でもなく、スポーツのルールを守るうえで重要な原則だ。

ちょっとよく考えてもらえばわかると思うが、イカサマは、ばれなかったとしてもイカサマなのだろうか?

それは違う。

そもそも、ばれていないのならそれをどうやって、誰が、イカサマだと告発できるのか?

誰にもできない。

聞こえていない呼びかけには返事ができないのと同じ、気づいていない病気は治療できないのと同じで、ばれていないイカサマをイカサマとして告発することは理論上不可能だ。

「ばれなきゃイカサマじゃない」というのが「許せない!」と言うのなら、それは「ばれていないイカサマもイカサマとみなす」必要がある。

「なんか変に強かった」「ゲーム中の仕草がなんか不自然だった」

そんな理由で「イカサマをした!」と断定する必要がある。

しかし、その考えは「多分犯人だろうから」で罰を与える、いわゆる「推定有罪」だ。

それは、決してやってはいけないこととされている。

これでもうわかるだろう。

なぜ「ばれなきゃイカサマじゃない」はスポーツマンシップに準ずるのか?

それは、
「ばれなきゃイカサマじゃない」の同義語は「疑わしきは罰せず」だからだ。

これは法を守るうえでの重要な原則だ。

目の前に一個のリンゴがあるとする。
それをある人は「まるまると大きく育ったつややかなリンゴ」と表現した。
別の人は「農薬と化学肥料をたっぷり吸ってワックスでテカテカしたリンゴ」と表現した。

言い方に違いはあれど、指しているものは同じだ。突然リンゴが2つになったわけじゃない。

これと同じく「ばれなきゃイカサマじゃない」は「疑わしきは罰せず」を別の観点から言い換えたに過ぎない。

これは「イカサマ師の言い分」でも何でもない。むしろ、法の秩序のもとにいる全員が心がけていなくてはならない原則だ。

「いやらしい言い方をしていると間違ったことを言っている印象を受ける」

まあそれはわからなくもない。だが、現実にはどういう言い方をしようと正しいもんは正しいということはわかっておいてほしい。

リンゴの例でいやらしい言い方をするのは、コマーシャル的な観点から見れば悪手だが、別に「ばれなきゃイカサマじゃない」はコマーシャルではない。

むしろ、正確に理解し順守するためには、別の観点から見るとどうなるかを知っておくのは有益だろう。

個人的には、バトスピ勢はフェアプレー、イカサマなどについて、正確な知識もないまま本人の感情だけに基づいて議論しているように見える。

少なくとも、「『ばれなきゃイカサマなじゃない』なんてイカサマ師の言い分だ!そんな考え方していてはならない!」なんて思っているようでは、適切な議論は不可能だ。そこは正しく知識を身に着けてもらわなければ困る。

一度、バトスピ勢で議論をしてみてはどうだろうか?勉強会と言ってもいいけど。

「フェアプレーとは何か?」
「ルールとは何か?」
「どうやったらフェアプレーをしていることになるか?」
「ルールを守るために心がけておくべきことは何か?」

このあたりの知識を学び、大勢で共有するための勉強会だ。

バトスピが長く続いてほしいと願い、その環境を良くしたいと思うのなら、有意義な経験になるはずである。

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