勉強には意味がある。
しかし、「どうして勉強しなくちゃいけないの?」という疑問が常に子どもたちから出てくるのはなぜだろうか?
それは、大人がその疑問に真剣に向き合わないから、というのがその一因だと考える。
では、大人たちはなぜその疑問に向き合わないのだろうか?
大人たちのことを考える前に、子供たちのことを考えよう。
子供が勉強する意味を疑問に思うのはなぜだろうか?
それは、勉強した先に、何があるのか、何がもらえるのか、どんないいことがあるのかわからないからだろう。
「こんなことしてほんとにいいことあるのか…?」
「何かいいことがありそうな気が全くしないんだが…」
勉強をやらされている子は、こんな思いを持って日々机に向かっていることだろう。
実は、その考えは正しい。
学校の勉強の先には、実は本当のところは何もない。
本当に何もない。
君たちが感覚的に持っている印象は正しい。
それを、大人たちは無理やり「ある!」ということにしたがるから大人の言う「勉強をしなくちゃいけない理由」というのは煮え切らず、納得しづらいものが多くなる。
なぜ、勉強には意味を感じないのか?
それは、
「学校での学習を修了する」ということは、ゴールではなくスタートだからだ。
ゴールではなくスタートだから、”賞品”もないし”表彰台”もないし”ゴールライン”もない。
ただ、”スタートライン”があるだけだ。
学校の勉強を終えて、そこから始まる。
大人たちは、やたらと「学校の勉強をするとね、あーだこーだといいことがあるのよ」ということにしたがる。
なぜなのか?
ひとつの理由は勘違い。
大人たち自身が、学校の勉強はゴールだと思っている。
もうひとつは、
そういうことにしたがってる。
そうであってほしいと願っている。だから、他人にその願望を押し付けることで、それが事実だということにしたがっている。
学校の勉強がゴールじゃないということはどういうことか?
勉強がそこでは終わらないということ。
より重要な勉強を、学校を出た後にしていくということ。
学校で習ったことがすべて正しいわけではないこと。
時に、学校で習ったことを否定していく必要があること。
「少年老い易く学成り難し」
学校の勉強はあくまで基礎。頭を使うトレーニングのようなもの。
そして、
教科書に書かれていることは、この世の真実ではない。
現在も研究中のことが多々ある。
新たな事実の発見によって、まったく変わることもあるし、考え方が変わることもある。
そもそも、教科書にかかれていることに関わらず、この世のすべての真実とされていることは、あくまで仮説にすぎない。「今のところ、これが一番真実に近いだろう」という結論に過ぎない。
だが、悲しむべきことに、それを迷惑に思う大人がいる。
「学校を出てからも勉強なんてしたくない」
「学校で習ったことが全てであってほしい」
「学校で習ったことが絶対の真実であってほしい」
「学校で習ったことが変わってほしくない」
「一度覚えたことが間違ってたなんて信じたくない」
こんな風に思っている。
最近、異常な猛暑によって熱中症対策が話題だが、その中で、学校にエアコンをつけるのつけないのという論争や、運動部の練習や大会を中止すべきという論争が全国で起こっているようだ。
どう考えてもエアコンは付けたほうがいいし、大会は急には難しくても練習はやめた方がいいのだが、反対する人もいる。
曰く
「昔はなくても平気だった」
「子供は暑さに耐えて強い子になる」
「水を飲むと運動の効果が消える」
「練習を休みたいなんて甘え」
などなど。
どれも誤りなのだが、かたくなにそう信じている人がいる。
これこそ、俺が言った学校の勉強をゴールと考えている人の典型例だ。
子どものころに教わって、それを全てと考えているから、大人になって間違っているとわかったとしても、その考えを更新できない。
学校の勉強がゴールだと思いたい人間が、自分に言い聞かせるために、子供にも同じ考え方を押し付ける。
学校を卒業すれば、そこに”賞品”や”表彰台”があるのだと思わせたがる。
だが残念ながら、学校を終えればそれが全てではない。
勉強に終わりはない。
人間の愚かさが根本的に変わらない限り、勉強をし続けなければ、すぐに時代においていかれ、結局自分自身を幸福にすることさえできない。
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しかし、「どうして勉強しなくちゃいけないの?」という疑問が常に子どもたちから出てくるのはなぜだろうか?
それは、大人がその疑問に真剣に向き合わないから、というのがその一因だと考える。
では、大人たちはなぜその疑問に向き合わないのだろうか?
大人たちのことを考える前に、子供たちのことを考えよう。
子供が勉強する意味を疑問に思うのはなぜだろうか?
それは、勉強した先に、何があるのか、何がもらえるのか、どんないいことがあるのかわからないからだろう。
「こんなことしてほんとにいいことあるのか…?」
「何かいいことがありそうな気が全くしないんだが…」
勉強をやらされている子は、こんな思いを持って日々机に向かっていることだろう。
実は、その考えは正しい。
学校の勉強の先には、実は本当のところは何もない。
本当に何もない。
君たちが感覚的に持っている印象は正しい。
それを、大人たちは無理やり「ある!」ということにしたがるから大人の言う「勉強をしなくちゃいけない理由」というのは煮え切らず、納得しづらいものが多くなる。
なぜ、勉強には意味を感じないのか?
それは、
「学校での学習を修了する」ということは、ゴールではなくスタートだからだ。
ゴールではなくスタートだから、”賞品”もないし”表彰台”もないし”ゴールライン”もない。
ただ、”スタートライン”があるだけだ。
学校の勉強を終えて、そこから始まる。
大人たちは、やたらと「学校の勉強をするとね、あーだこーだといいことがあるのよ」ということにしたがる。
なぜなのか?
ひとつの理由は勘違い。
大人たち自身が、学校の勉強はゴールだと思っている。
もうひとつは、
そういうことにしたがってる。
そうであってほしいと願っている。だから、他人にその願望を押し付けることで、それが事実だということにしたがっている。
学校の勉強がゴールじゃないということはどういうことか?
勉強がそこでは終わらないということ。
より重要な勉強を、学校を出た後にしていくということ。
学校で習ったことがすべて正しいわけではないこと。
時に、学校で習ったことを否定していく必要があること。
「少年老い易く学成り難し」
学校の勉強はあくまで基礎。頭を使うトレーニングのようなもの。
そして、
教科書に書かれていることは、この世の真実ではない。
現在も研究中のことが多々ある。
新たな事実の発見によって、まったく変わることもあるし、考え方が変わることもある。
そもそも、教科書にかかれていることに関わらず、この世のすべての真実とされていることは、あくまで仮説にすぎない。「今のところ、これが一番真実に近いだろう」という結論に過ぎない。
だが、悲しむべきことに、それを迷惑に思う大人がいる。
「学校を出てからも勉強なんてしたくない」
「学校で習ったことが全てであってほしい」
「学校で習ったことが絶対の真実であってほしい」
「学校で習ったことが変わってほしくない」
「一度覚えたことが間違ってたなんて信じたくない」
こんな風に思っている。
最近、異常な猛暑によって熱中症対策が話題だが、その中で、学校にエアコンをつけるのつけないのという論争や、運動部の練習や大会を中止すべきという論争が全国で起こっているようだ。
どう考えてもエアコンは付けたほうがいいし、大会は急には難しくても練習はやめた方がいいのだが、反対する人もいる。
曰く
「昔はなくても平気だった」
「子供は暑さに耐えて強い子になる」
「水を飲むと運動の効果が消える」
「練習を休みたいなんて甘え」
などなど。
どれも誤りなのだが、かたくなにそう信じている人がいる。
これこそ、俺が言った学校の勉強をゴールと考えている人の典型例だ。
子どものころに教わって、それを全てと考えているから、大人になって間違っているとわかったとしても、その考えを更新できない。
学校の勉強がゴールだと思いたい人間が、自分に言い聞かせるために、子供にも同じ考え方を押し付ける。
学校を卒業すれば、そこに”賞品”や”表彰台”があるのだと思わせたがる。
だが残念ながら、学校を終えればそれが全てではない。
勉強に終わりはない。
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