コミュニティが狭いと、考えが硬直し、結果的に判断を誤る。

最近しみじみそう思う。

そのきっかけは、現在書き進めている件と昨日アップした謎の水装置の件。

どちらも、狭く人数の少ないコミュニティの中で誤った判断をしてしまった。

狭いコミュニティの中では多種多様な意見が存在しづらい。単純に確率的な問題で。

均等な割合で10色のボールが入っている箱の中から、ボールを何個かランダムに取り出すとする。

この時、たくさん取り出せば取り出すほど色が均等になる確率は高くなるし、逆に少なければ少ないほど偏る確率は高くなる。もしも9個以下しか取り出さないなら、1色は確実に入らない。

これが「意見」「知識」「価値観」の世界で起こったならどうなるか。

”ボール”の数が多く含まれるコミュニティならそれぞれが互いに批判しあえる。まずい意見があっても別の意見がそれを否定することも出来る。さらにその数が均等なら誤った意見が多数派になることもない。
たまたま立場の強い人間が誤った考えに染まったとしても、それ以外の人間たちが多数派であることを利用して抵抗もできる。

だが、“ボール”の少ないコミュニティならどうなるか?
意見に偏りが出る。そして、それがたまたま良い意見ならいいが、悪い意見が多数派になることもある。
立場の強い人間が誤った意見を持ったなら、それ以外の人間が抵抗することも難しくなる。
悪い意見を正すための重要な意見が含まれていない場合も有り得る。

”ボール”の数が少ないことは、判断を誤る決定的要因ではないが最悪を避ける可能性を下げる大きな要因だ。

その意味では、”ボール”の数が多いことは、適切な判断を下すうえで極めて重要なことだ。

これはもう一つの結論を導き出せる。

知識の質を上げるには知識の量を増やす必要がある。

時折、「知識を増やすと間違った情報に惑わされる」という人がいるが、その間違った情報を正せるのは正しい知識だけだ。ならば、さらに新たに情報を手に入れるのが適切な手段だ。

だいたい、「知識が多いと惑わされたり混乱したりする。だから知識はあり過ぎちゃダメ」というのも屁理屈だ。
知識が多すぎると惑わされるなら、「惑わされない目を養おう」というのが、論理的にシンプルだ。

また、「学校で学べる知識がなくても世間の大事なことはちゃんと理解できる」なんて言う人がいるが、先の「謎の水装置」の一件はまさに「学校で学べる知識」の不足が原因で起こっている。

学校で習い覚えることができる知識、もしくは考え方ができていれば、むざむざ似非科学に金を払わずに済む。
「謎の水装置」のほかにも、「水素水」とか「EM菌」などもそうだ。

これで「世間」とやらで大事なお金を無駄にしている。

もっと根本的なことを言うと、人間の知識はまだまだ発展途上なのだから、どの知識が正しくどの知識が間違っているかなど容易に判断できるものではない。

勉強の価値を貶めたがる人は、「私の知識は少ない。だけど持ってる知識は全て正しい」と思っている節がある。

ありえない。

だからこそ、より多くの知識を求める必要があると思う。

人は、知識を増やすことから逃げてはいけないと思う。

ひとりでもそうだが、みんなでもそうだ。

ひとりで可能な限り知識を増やし、一人でできない分はみんなで補う。

それを、諦めることもごまかしてもいけない。

人間は知識の助け無しに正しい判断を下せるほど賢くはないのだから。

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