もしもこの世に「評価は人が決めるもの」という考えを発明した人がいるとしたら、今頃「こんなはずじゃなかった…」と頭を抱えているんじゃないだろうか?

過去に記事にしたことがあるが、「評価は人が決めるもの」という考え方は様々な点でおかしい。

さらに、今回の相対性入門を読んだ人にはもう一つその説明を加えられる。

評価は基本的に相対的なもの。「基準をどこに設定するか」によって全く変わる。これは、「甘口カレー」を辛いとするか甘いとするかという問題と同じだ。

つまり、そもそも

「決める」という行為自体が評価という概念にそぐわない。

評価はどうがんばっても決められない。

基準次第でどうとでも変わるからだ。

そして、人がものを評価する基準はそれぞれ違う。

甘口カレーでも辛くて食べられないという人もいるし、ちょうどいい人もいるし、甘すぎて食べられないという人もいる。

「どれか一つを正しいと決める」という発想自体がナンセンスだ。

「評価は人が決めるもの」という考えは、

「あなたが私をどう評価してもそれは正しい。なぜならあなたにはあなたの評価基準があり、それは否定できないからだ。しかし、それと同様に、私が私をどう評価しても、それは私の評価基準に基づいているものであるから、否定できない」

という発想、要するに

「他人にとっての自分の評価は他人が決める、自分にとっての自分の評価は自分で決める」

という発想においては正しい。

しかし、今の使われかたは

「自分で自分を評価すると、甘い評価になるに決まってる。他人が決める評価は冷静で客観的だ。だから文句言うな!謙虚になれ!甘えるな!」

というものになっているようだ。

この発想のおかしさは過去記事を見ていただくとして。

この根底にあるものは

「評価」というものの本質に対する無理解

ではないだろうか。

それは、論理的に複雑で実感を伴って理解しづらいうえに、「視点の違いによる見え方の違い」を想像力を働かせて把握しなければならない。

おまけに

自分の意見を否定されたくないというわがまま
自分が正しいに決まっているという傲慢
絶対に正しいといえる考え方がこの世には常にあるはずだという思い込み

そんなものが混じってよけいに勘違いを産んでいるのだろう。

俺は思う。

世界で最初に「評価は人が決めるもの」と言った人は「他人にとっての自分の評価は他人が決める、自分にとっての自分の評価は自分で決める」という意味合いで言ったんじゃないだろうか?

いや、そもそも最初からそう言ってたのかもしれない。

それを人は上記のような理由で捻じ曲げて、自分の傲慢を貫くために利用しているんじゃないだろうか?(特に、「自分はえらい」と思っているやつが)

そんな状況を見て今頃「違う...そうじゃない...」と歯ぎしりしているかもしれない。

「評価は人が決めるもの」という発想は合理的な正当性などどこにもない。これを「正論だ!」と思い込んでいたら合理的思考からは遠ざかるばかりだ。

いい加減、考えを改めたらどうだろうか?

下のバナーを1クリックお願いします。
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村