「個性が大事」と「いろんな意見があっていい」

両立しないはずのものが両立しているように見えるのは、ただ単に、その言葉を使っている人が、そのことに気づいていないという、論理的正当性とは無関係な、現実的で実際的な理由が大きい。

現代の日本では、白と黒に分かれるはずのものが、コーヒーとミルクが混ざりかかったような、グラデーションとマーブル模様が混在しているような状況だ。

そういう状況を作り出しているもう一つの理由は処世術だと思う。

誰かが「○○にはこういう個性があるんだ!」と世間話の延長で言い出したとする。

その時、たとえ異論があっても(まあ…でもわざわざ言うほどのことでもないし、楽しそうに話しているし、下手に言って空気悪くするのもな…)

と思って何も言わない。

そんな処世術。

そもそも俺自身、そうしている。そして、「処世術」と言いはしたが、これまで説明してきた通り「正しい」と言えるのだ。ただ単に「それと同時に間違ってるとも言えるだけ」であり、この処世術は「もう一方の意見を言わないだけ」で「間違っていると思っても口にしない」とは全然違う。

なので、多少ずるく感じてもかんべんしてもらいたい。


とはいえ、本来は、

「個性が大事」というのなら、いろんな意見を認めない。1つか少数に絞る。それ以外は邪道とする。

「いろんな意見があっていい」のなら、個性に価値を見出すことはできない。


というのが基本なのでそこは分かってもらいたい。

ちなみにこれは、「どちらかが正しい」ということではない。「あなたにとってはどっちがいいか」という問題であり、「どっちを選んだら間違い」ということもない。

それは、前の記事を読んでもらえばわかると思う。「デッキを0から作れる人」=「自分以外は馬鹿」=「ガレージの竜」1/2

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