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虚弱だった私が、今なぜこんな仕事をし元氣なのか
リアルなプロフィールを書きたいと思います。
1968年 池田市で
早産だったため1920gという未熟児で産まれました。
呼吸器系疾患で産まれ、成長が遅く
生きれるかどうか生命力が弱いと言われていたそうです。
(今でも私の首、喉には切開した傷が大きく残っています。)
母は、毎日お百度を踏んで祈っていたと聞いたことがあります。
宝塚に移り祖母、父、母、二人の姉に支えられ虚弱ながら生きるという使命をいただきました。
昭和40年代は今のように病院がそんなにたくさんはありません。
車だって贅沢品。
毎日、毎日 高熱で唸る私を母は背中に負ぶって、駆け足で山を下り小さな川が流れる側にある掛かり付けの病院を訪ねる日々。
今でも、その母の背中の温もりは覚えています。
当時の治療は、小さな身体のお尻に一本の注射が刺さる。
幼少期の私にとっては痛く、怖く、泣き叫ぶ治療だった。
次第に熱が出たり体調が悪くなると、あの針が私のお尻に命中するのかと、ぞーっとする嫌悪感を抱くようになり体調が悪くても元氣の素振りをし演技するようになった。
でもそう簡単にはいかない。
大量の薬の摂取や注射の影響か定かではないが幻覚や妄想癖が現れるようになった。
木の上に上ったり、屋根の上にいたり、家族が青鬼にしか見えない時もあった。
そんな幼少期だった。
そのまま、虚弱体質のまま入退院を繰り返しながら年を重ねた。
大学に入学した私は、婦人科系の疾患に悩まされる。
子宮内膜症という疾患だ。幼少期から身体の弱いことで母を悩まし続けたために、内緒で病院に通う。バイトで稼いだお金で診療代を支払う。健康保険を使えば通知が送られることを知らなかった私はバカだった。
母に直ぐにバレ、怒られる。
母と一緒に通院。生理が激痛だったので内服で治療するが、便秘や腰痛、常に軽度の腹痛を伴っていた。
実は、私の我がままで母との関係があまり良くなかったため反抗的で母の忠告がが煩わしかった。
大学卒業後、社会人一年目の梅雨
40℃の高熱が一週間続いた。しかし、私は母や家族に、40℃熱があることは言わず
大量のバファリンを飲みながら会社に行った。一日に10錠以上は飲んでいたかと思う。お得用の42錠入りの箱を一週間で3箱は飲みきっていたので。
1週間後、私は倒れた。また、家族に内緒で会社の近くの病院に行き検査。
すると左側の卵巣が腫れあがり、それが腸に癒着、捻転をおこしれいるとのことでした。直ぐに手術をしないといけない状態。
黙って手術をしたかったが家族の同意が必要とのことで、母に電話をした。
母は、その時に検査をした病院は嫌な様子だったのでセカンドオピニオンとして知り合いの病院に紹介状を書いてもらい、別の病院で手術することになった。
診断は左卵巣嚢腫(チョコレート嚢腫)。左の卵巣を全摘。癒着、捻転していたため腸の一部も切除。
手術後、嘘のように下腹部の痛みが取れる。四年間の痛みの苦しみは何だったんだろうと思うほど。
しかし、1年後に右卵巣に再発。生理が起こる度に成長する右卵巣。
生理を止めるか、腫瘍を取り除くために手術をするか。担当医師は、薬(ホルモン剤)の方が副作用が強いので手術を勧めてきた。
左卵巣がないため右卵巣を全摘することは妊娠できなくなるので不可。なので腫瘍のみ取り除く手術をした。
また一年後の25歳の時に右卵巣が腫れていると再発診断。
さあ、どうしましょう...?
医師が選んだ治療法は「妊娠治療!?」
一年以内に妊娠をしてくださいという宣告でした。
「はっ???」
結婚もしていない私に、無茶な治療法を告げられた。
私の身体はボロボロ。子宮内に筋腫が数個あるらしい。赤ちゃんが宿っても成長するスペースが小さい。
流産する確率も高いと医師から告げられる。
そんなハイリスクな状態で当時お付き合いをしていた今の旦那と直ぐに入籍、結婚。
有難いことに結婚4ヵ月目に妊娠が分かる。
さて、この子は私の子宮の中で育つのだろうか?
不安を抱きながらも2時間かけて通勤していた会社を辞めず、変わりなく通い毎日を送り大きなトラブルなく臨月を迎えた。
臨月には阪神大震災が私の出産を妨げる!当時、神戸に住んでいた。幸いにも私が住んでいた地域は最悪な状態は免れ、里帰り出産を希望していたが実家が被災。里帰りできる状態ではなかった。里帰りどことか震災後直ぐは電車が止まり、道路も瓦礫の山でスムースに走れない状況。そんな状況の中、無事に第一子を産むことができました。
出産することで子宮、卵巣の状態は落ち着いたのもつかの間。
また再発です。
今度は医師からこう告げられました。
「もう一人、赤ちゃんを産めば女性を捨ててもいいかな⁉」
痛みを抱え続け育児にもきちんとできず苦しかったので
「もし、もう一人赤ちゃんを授かることができたなら女性捨てます」と医師に伝えた。
「じゃあ、もし妊娠できたら出産するときは帝王切開にして、その時子宮を全摘しましょう」との話になった。
しばらくして第二子を妊娠。
出産後の子宮、右卵巣の全摘の話はギリギリまで悩み続けた。
「先生、私 普通分娩でチャレンジします。腫瘍は癌でないので、そのまま温存させてください」
と、医師に相談した。
医師は、「分かりました。時期を見て、今後の治療法は考えていきましょう」
と、私の意見を受け入れてくれた。
第二子の出産後、私は体調を崩し、育児ができず免疫力が下がり病気ばかりを繰り返す。
私の身長は169㎝。体重は少しぽっちゃり気味の60kgだった。
妊娠をきっかけに太ったため出産後の体重は64kgまで増えていた。
出産後、約三ヶ月で私の体重は43kgまで落ちていた。
骨に皮って感じでしょうか?頬は痩せこけ全身、骨張った身体。
近くの内科を受診して癌検査をした。癌ではなかったが、栄養失調と診断。一か月の献立を書いてくるようにめいじられた。
10日後に再受診した私の体重は42kg
「いやー栄養バランスは問題ないですね。高カロリー、高脂肪の食べ物ををもっと食べてみては?」とのアドバイスを受け、体重がなかなか増えないまま一年が過ぎる。
自然療法に少しづつ取り組んでいたが、これをきっかけに更に自然療法への治療に力を注ぎ、カラダのことを猛烈な勢いで学び始めた。
30歳からだった。
しかし、カラダは待ってはくれない。32歳の時に子宮と卵巣の状態は悪化。医師から、「やっぱり全摘した方がいいよ」と言われたが、もう少し、もう少しと騙し騙し、自然療法の治療をしながら学び毎日が過ぎた。
気がつけば35歳の時の検診でいくつもあった筋腫が親指大の筋腫が一つ、右卵巣は普通な状態になっていた。
その翌年には小指大の大きさまで筋腫は縮小。
医師から、「何か他で薬を飲んでいるのか?」と尋ねられたが
薬のようなものは何も飲んでいなかった。
温熱療法やホメオパシー療法、リンパマッサージと様々なことを施していたことも良い結果をもたらしたと思うが、疾患の要因には私の心理背景が大きく関わっていたことに気づいた。
35歳過ぎたころ、人生で味わったことがないほどの爽快感。カラダが軽く、疲労感もなく自然に笑顔が溢れる毎日を送れるようになった。
今が青春!と更に活動的になり自然療法のセラピーや学びに費やした。費やした金額は約800万円は使ったと思う。
ここまで気づくのに長い道のりだった。
じゃあ、今の私の心身は完璧か!?と言われると、完璧ではない。
完璧であれば今、生かされていません。まだまだ、学ぶ試練が必要だから今、生かされている。
今の私の志事は、今まで学び施した集大成として活かし、お力になれればと続けております。
多くの方がSmieSmileSmileになれる、笑顔溢れる生活を応援させていただけましたら幸いです。
最後まで、読んでいただきありがとうございました。
♡ありがとう♡
☆感謝☆
大西久子