『クリミア危機』 歴史を振り返ろう 【院長】 | ほぐれる美容鍼灸マッサージ - HGRL

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クリミア危機も既にクライマックスを迎えています。
早く終わらせないと「パラリンピック」が始まっちゃいますからね!(平和の祭典なので)

で、その「クリミア」です。位置は前回の地図で分かったと思います。
クリミアと聞いて思い浮かべるのは、そうですねぇ、「クリミア戦争」でしょうか?

中学の社会の時間、寝ていなければ何となく聞いたことのあるコトバでありましょう。
「アウストラロピテクス」や「クロマニョン人」、「ローマ帝国」や「十字軍」、「チンギス・ハーン」ほど強く印象に残ってはいないと思いますが。

クリミア戦争が時期的には、ギリだと思います。
日本史でも幕末から開国、そしてまぁ自由民権運動までくらいでしようか、記憶にあるとすれば。そこから先、大正、そして昭和初期ともなるとサッパリなのでは?
5・15事件と2・26事件、どっちが先だったでしょう。そんな感じだと思います。

では「オスマン帝国」はどうでしょう?
以前は「オスマン=トルコ(帝国)」と呼んでいました。頭の片隅にありましたかな?

とりあえず、歴史をザッと振り返りましょうか。
まず、この地域(ユーラシアの西側)で外せないのが、「ローマ帝国」です。
テルマエ・ロマエ」ですね!地中海がヨーロッパ人のモノであるかのように思うのは、このローマ帝国のお蔭でしょうね。歴史上の偉人たちはこぞって第二のローマ帝国を目指しました(ナポレオンとかヒトラーとか)。

(ローマ帝国の最大版図)

ローマ帝国そのものは早い段階で西と東に分裂し、西は4世紀には滅亡しました。
東西に分裂したローマ帝国のあとに台頭してきたのが「イスラム」教国家(帝国)でした。
7世紀には東ローマ帝国をかなり追い詰め、何と地中海を「イスラームの海」にしてしまうほどに。北アフリカはおろか、イベリア半島も手に入れました。



(イスラーム帝国最大版図)



ちなみに、当時のイスラム帝国(アッパーズ朝)はアジアへも侵出し「唐」と激突。勝ってますからね。

9世紀、東ローマ帝国は徐々に力を取り戻し、11世紀には東地中海を奪回する大帝国(最盛期)に。だが、しかし、キリスト教の聖地であるエルサレムはまだ異教徒の手に陥ちたままだったな、ということで…

(東ローマ帝国最大版図)
(クリミア半島の南東部が含まれていますね)


聖地奪還という大義名分のもと始まったのが「十字軍」でした。あくまで大義名分であり、実際にはそりゃもう極悪非道な、ただの暴力集団でした。実際、どさくさに紛れて東ローマ帝国の帝都であるコンスタンティノーープルを攻め落としてますからね…(後に奪回)
結局、聖地奪回はならず、13世紀末、この地は完全にイスラムの勢力下に。

この時期だと忘れてはならないのが、ほぼ一代で超大帝国を築いた「モンゴル帝国」でしょう。

(モンゴル帝国最大版図)
(クリミア半島も完全にモンゴルの支配下に)


改めて見てもスゴイ版図です。でも、もし第二代皇帝だったオゴテイが急死しなかったら…。
だって、オゴテイの前にヨーロッパ連合軍は手も足も出なかったんですからね。まず確実にユーラシア大陸全土を手中に収めていたと思います。急死してなければ、ね。

もう一度、モンゴル帝国の版図を見てください。
これを見たら、中国四千年の歴史なんて簡単にはいえませんよね。文化や風俗としては連続性もありましょうが、「国」としては完全に断ち切られてますから。
あれ、となると、「韓国半万年の歴史」というのも…(まさかウソなのか!?)

モンゴルの勢力が衰退していく中、台頭してきたのがイスラム国家である「オスマン帝国」とモンゴルによる「タタールのくびき」を打ち破った「モスクワ大公国」でした。ようやく今回の主役(らしきモノ)が登場してきましたね。

15世紀、オスマン帝国は東ローマ帝国を滅ぼします。そしてコンスタンティノープルを「イスタンブール」と改称します。
東ローマ帝国崩壊後の「正教」はモスクワ大公国が引き継ぎました(双頭の鷲の紋章も)。故に、ローマ帝国の正統な後継として、モスクワを第3のローマ(或いは第2のコンスタンティノープル)と言ってるのですね。

ちょっと目を西の方に向けてみましょうか。
この頃、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐せよ!ということで強力な国王の下、一致団結し国土回復運動(運動といっても熾烈な戦闘ですが)が行われていました。「ポルトガル」、そして「イスパニア(スペイン)」であります。

イベリアにある国家は地中海だと西の端。もともとあまり恩恵を得られることもなく、長期に渡りイスラームの内海となっているので、それこそ出る幕はない。実際、オスマン帝国が地中海に侵出したからは、それまでよりもっと高い関税をかけられ、ヨーロッパ勢は窮地に陥りますから。

15世紀末、ようやくレコンキスタ(国土回復運動)成功!その勢いに乗じて、ポルトガル、スベインの両国は地中海ではなく、もっと大きな大海へと進出します。「大航海時代」の幕開けです。
地中海をはじめとするこれまでのヨーロッパ世界では分け前がないということで、「新世界」へと進出した両国。その新世界は涎が出るほど魅惑的で、眩い世界でした。略奪し放題、まさに「早い者勝ち」の世界だったんですね。

(バかげた世界二分割案。トルデシリャス条約)

ポルトガルとスペインの両カトリック教強国で世界を二分しようと画策したくらい。
条約線が南米にちよっとかかっているので、この地、ブラジルはポルトガルのモノになったわけです(南米でここだけ公用語がポルトガル語である理由です)。

元に戻りましょう。

15世紀の中ごろ、クリミア半島にはモンゴルの意志を受け継いだ「クリミア・ハン国」が建国されました。

(クリミア・ハン国の版図)
(注意すべき点は「キエフ」があるのは「ポーランド領」だということ。ウクライナなんてまだありません)


思い込みが怖いのは、クリミア半島の国家なんて小国だから、どうせ周辺の強国に蹂躙されてしまうに違いない、と。いや、確かに、南からの大勢力である「オスマン帝国」に従属し、保護してもらうことになるわけですが、それでも北の強国である「モスクワ大公国」とは五分に、いや時にはモスクワまで遠征し、街を焼き払ったくらいです。

何がスゴイかって、この時のモスクワ大公国のツァーリー(皇帝)は雷帝と恐れられた「イヴァン四世」だったんですよ!
日本で例えるなら、信長の岐阜城を「ここは思案のしどころじゃのぉ~」と言いながら焼き討ちしたに等しい快挙(愚挙)です。

(オスマン帝国の最大版図)


オスマン帝国はもう少し(日本でも)評価されていいと思う。
今回はクリミア半島(及び黒海)を中心に書いてますが、その黒海周辺を全て、さらにはバルカン半島全土から東欧、さらにはエジプトを含む北アフリカまでをも支配した、最後の帝国ですからね。

オスマンはなかなか馴染み薄の言葉でありますが、部屋で映画を鑑賞する際などには必需品ではありませんか?「オットマン」です。由来はトルコの椅子、ですからね。

まだ続きます