私論暴論 不倫報道から“道徳”について考える | Keigoの開運Laughstyle

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アンジャッシュの渡部建さんの不倫報道。

相変わらず、外野がとやかくいっていますね。

不倫報道が出るたびに思うんですが、これについては当事者の問題であって、周りがとやかくいうことではありません。

(これは何度となくいっていますが…)

そして、さも自分が迷惑をこうむったようにコメントをする人たち…

その人たちの言い分が「道徳的に反する…」

 

そもそも道徳ってなんでしょうか?

幸せな生き方という観点で考えてみました。

 

道徳という言葉を辞書で引くと、社会生活を営む上で一人一人が守るべき行為の基準とありますが、その基準は誰が決めているのでしょうか。

道徳は概念であって、その時代の慣習に基づいて都合のいいように書き換えられます。

 

その基準となる概念と人間という生物が本来持っているもの(生物としての本能)との間には乖離があります。

その乖離が故に、不倫という行為はいつの時代でも存在しますし、それが社会、時には歴史をも動かす結果にもなりました。

ですから極論(私論暴論的に)をいえば、不倫を道徳というものさしで測ること自体意味がないと私は思っています。

 

誤解してもらいたくはありませんが、私は不倫をしようとか不倫してもいいといっているわけではありません。

 

ただ、“道徳”というものさしでものごとを測るとき、その「道徳」が何のためにあるのかを今一度考えるべきだと思います。

 

「道徳」は人を誹謗中傷し傷つけるためのものではないはずです。

そして、人の持つ可能性を縛りつけるものでもありません。

むしろその逆です。

 

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そんな世界だからこそ、人間の持つ「道徳観」がより重要になってきます。

社会生活を営む上で、人を幸せにするための基準としての「道徳観」を養いたいものです。

 

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