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和して同ぜず

頭の中の整理、アウトプットの場として利用さしていただいています。書籍の解釈にはネタバレを含みます。

カンナミユーヒチは戦闘機のパイロット。飛行機に乗るのが日常、人を殺すのが仕事。空で人を殺したてでボウリングもすれば、ハンバーガも食べる。
戦争がショーとして成立する世界に「生み出された」大人にならない子供―キルドレ
戦争を仕事に「永遠」を生きる彼らの主観から生の意味を問う物語

必要最低限の表現しか使われてない精練された文章のため人によって解釈が異なると思いますが、僕の感じた事を書きます。

「大人になることを、一つの能力と捉える、そして、子供のままでいることは、その能力の欠如である、と解釈する。そういった考え方に立脚すれば、僕たちみたいな子供を見下すことができる。そんなメカニズムなのだろう、きっと。
でも、大人になる、ということは、つまりは老いることであって、山から下ること、死の谷底へ近付くことではないのか。
どうなんだろう…
人は本当に死を恐れているのだろうか?
(中略)
子供のままで死んで行くことは、
大人になってから老いて死ぬことと、
どこがどう違うのだろう?」
(スカイ・クロラ)


カンナミの言葉

僕たちは死を恐れているのか?
現代では命の危機を感じることが全くと言っていいほど皆無だ。
それでは命の重み・かけがいのなさが希薄になるのは必然
そして、膨大な情報がそれを急速に速めている
近頃の事件では犯人は誰でもよかった。と供述することが多くなっているのはなぜ?
少なからず命の無機質化が進んでいることがうかがえる。

しかし、ここで新たな観点で事件を見ることはできないだろうか?

つまり、犯人も誰でもよくなってしまっていることだ。
多くの人が報道される事件は他人事で遠いものとして捉えている気がする。

誰かが社会からキレる。
誰かって誰だ?
取りあえず自分じゃなくてよかったと胸を撫で下ろす。
そうやってしか日常を実感できない。

日常を実感すれのもままならないのならどうして死を考えることでできるだろう
だから死と向き合う状態どころじゃないというのが僕の結論


続いてまたカンナミの言葉

「仕事も女も、友人も生活も、飛行機もエンジンも、生きている間にする行為は何もかもすべて、退屈凌ぎなのだ。
死ぬまで、なんとか、凌ぐしかない。
どうしても、それができない者は、諦めて死ぬしかないのだ。
(中略)
僕たち子供の気持ちは、大人には決してわからない。
理解してもらえない。
理解しようとするほど、遠くなる。
どうしてかっていうと、理解されることが、僕らは嫌なんだ。
だから、理解しようとすること自体、理解していない証拠。
僕たちは、確かに、退屈凌ぎで戦っている。
でも…、
それが、生きる、ということでないかと感じる。
(中略)

僕はまだ子供で、
ときどき、右手が人を殺す。
その代わり、
誰かの右手が、僕を殺してくれるだろう。」

(スカイ・クロラ)



まさにカンナミの言う通りだと思う。
命が軽視され、ひとはただ生きているだけで満足しなくなった。
そして何かに生きる意味を与えることでしか、自分の存在を証明することができなくったように思う

現代を批判するわけではないが少なくとも物で満ち溢れていることが影響していると思われる。





またもカンナミの言葉


「呼吸さえしていれば、死ぬことはない。食べて、寝て、顔を洗い、歯を磨く。それを繰り返すだけで、たったそれだけで生きて行けるのだ。
唯一の問題は、何のため生きるのか、ということ。
(中略)
祈ることで生と死の秘密の関係にちかづけるとは思えない、そう思ったからだ。生きていることを確かめたかったら死と比較するしかない、そう思ったからだ。
これは贅沢な悩みだろうか。」
(スカイ・クロラ)




ここでは生と死の対比によって生きる意味を見出すことができると言っている。
つまり、僕たちは現代の悩みである生きる意味の喪失を死と向き合うことによって解決できるらしい。
では、どうやって死と向き合うのだろう?
僕にはわからない。
肝心なところなのに。
しょうがない。生きながら考えるしかない。




次はクサナギスイトのことば

「自分の人生とか、運命とかに、多少は干渉してみたい。月並みだけど、それが、つまり、人並み。わかる?人並みだよ。私ってなに?人間だよね?違う?自分の死に方について考えるのが、人並みなんだって、そう思わない?」(スカイクロラ)



死と向き合って初めてヒトから人間に変われるということだろうか
僕はそう解釈した。





次はカンナミ


「 少なくとも、昨日と今日は違う。
今日と明日も、きっと違うだろう。
いつも通る道でも、違うところを踏んで歩くことができる。
いつも通る道だからって、景色は同じじゃない。
それだけでは、いけないのか?
それだけでは、不満か?
それとも、それだけのことだから、いけないのか。
それだけのこと。
それだけのことなのに…」



ここでカンナミは言葉に詰まってしまう。
これは、何を意味するのか
毎日は同じじゃない。
それだけで、生きることに価値を見出だそうとしているのではないか
これは死と向き合うことで得られた一つの答えなのか?
私が初めて「ライ麦畑で捕まえて」の存在を知ったのは残念ながら、文学的関心からではない。あるテレビ番組で、この作品、いや、正確に言うとサリンジャーを取り上げていたのを見たのである。その番組では、作品の深いに無いようについての説明はなかったので今回、自分の視野を拡げるべく課題として取り上げた。早速であるが中身を見ていきたい。はじめに概要を説明する。
 一人称形式の小説である。ホールデン・コールフィールドのわずか3日間の行状を追った、素描的なものである。この作品のなかでは、電話でのそれを含めて、ホールデンと何らかの対話するのは22人である。ホールデンの想い出として語られている人物は2名。合計24人の人物について言及される。この3日間以前の、作品中に言及されているホールデンにかかわる重要な出来事には、作家である兄DBのこと、過去3回放校になっていること、弟アリーの死にまつわること等がある。過去のものを含め作中のエピソードは、ホールデンにとって受け入れられなかった経験の枚挙となっている。
 上で述べたように作品は終止、独自の感性を持つ主人公ホールデン・コールフィールドの社会に対する痛烈な批判で埋め尽くされているためようやくはほとんど不可能に近い。そのため今回は私が恣意的にではあるが重要であると感じる人物との関係を整理することでホールデンの哲学を浮き彫りにすることを目標とする。
 まずは6章におけるストラドレーターがホールデンの旧友であるジェーンとのデートから帰って来、二人が殴り合いをする場面である。ストラドレーターの台詞に「みんなはどこに行ったんだ?個々はまるで死体置場みたいじゃないか」(「ライ麦畑で捕まえて」訳者:野崎孝(以下は明記しない))とある。これは原書(「the CATCHER in the RYE」出版: Little,Brown and Company 著者:J.D.Salinger(以下は明記しない))では“Where the hell is everybody? It’s like a goddam morgue around here.”である。私ははじめ、「死体」が常軌を逸し、他人からの干渉を拒絶するホールデンを意味するのではないかと考えた。しかし、原書と見比べてみると「死体置場」は「morgue」となっている。「morgue」の意味を調べてみると確かに「死体置場」の意味もあったが次の意味でも解釈は可能ではないだろうか。【a place that has become very quiet and dull-used humorously】(Longman Dictionary of Contemporary English[4訂新版])ホールデンはストラドレーターのことを土曜の夜にみんながいない理由をわからないトンマと罵っているが、上記のような意味ならば、ストラドレーターはただ単にふざけてこの台詞を口に出したとも考えられる。著者はどちらでも意味をとれるような単語を選び、人間の発言に対する意味の捉え方の違いを描き出したと言える。
 続いて、前述の会話文以降のストラドレーターとホールデンのやり取りを列挙してみたい。
“Where the hell is everybody? It’s like a goddam morgue around here.”
I don’t even bother to answer him. Then when he was taking off his tie, he asked me if I’d written his goddam composition for him. I told him it was over on his goddam bed.
“For Chrissake, Holden. This is about a goddam baseball glove?”
“So what?” I said. Cold as hell.
“Wuddaya mean so what? I told ya it had to be about a goddam room or a house or something.”
“You said it had to be descriptive. What the hell’s the difference if it’s about a baseball glove?”
“God damn it.” He was sore as hell. He was really furious.
“You always do everything backsswards. No wander you’re flunking the hell out of here. You don’t do one damn thing the way you’re supposed to. I mean it. No one damn thing.”
“All right, give it back to me,then” I said. I went over and pulled it right out of his goddam hand. Then I tore it up.
“What the hellja do that for?” he said. I didn’t even answer him.

 ここまでは会話が成り立っていると言える。ただし、相手の質問には答えないことが多い。このあと沈黙が続くがその沈黙を破るのは意外にもホールデンである。これは、孤独から脱するため共感できる人間を求めていることを意味する。
 沈黙を破ったあとの会話はほとんど成り立ってないと言ってよい。ホールデンは質問、命令に対して無視を決め込む。一方、ストラドレーターはホールデンの質問に対して嘘で答える。やり取りをしている間にホールデンは嘘の言葉に怒りをいだく。このあと、ホールデンはストラドレーターを突然殴ることになるのだがここで注目したいのはその直前にストラドレーターがホールデンに対してシャドウボクシングをしていることだ。本当の拳と偽の拳である。これは、ホールデンがたてまえのない真実の世界(子供の夢世界)で生きようとしているのに対し、ストラドレーター(世の中の人間本文では「低能な人間」)は真実の会話をさけ、嘘で満ち満ちた空虚な世界(大人の現実世界)で生きていることを象徴している。実際、ストラドレーターに馬乗りされた際にも思ったことをそのまま発言している。ただし、異質な台詞もある。原文を見てみたい。
“If I letcha up, will you keep your mouth shut?”
I didn’t even answer him.
He said over again. “Holden. If I lecha up,willya keep your mouth shut?”
“Yes.”
He got up off me, and I got up too. My chest hurt like hell from his dirty knees. “You’re a dirty stupid sonuvabitch of a moron,” I told him.

 驚くことにホールデンが嘘をつくのである。すぐにまた思ったことを発言しているが、これはホールデンが虚構である大人の世界に自らの独自の手段で足を踏み入れつつあることをしめしていると言える。大人の正体がある程度感覚的に認識しているホールデンにとって大人が築き上げてきた処世術は受け入れがたいもであるので独自の方法を開発するしか無いのである。結果はうまくいかず、このことでストラドレーターは本気で怒り(really mad)ホールデンは殴られることになる。ここでホールデンとストラドレーターの役割が全く逆になっていることに気付くとおもうが、これは人間が双方の世界を簡単に移動可能であることを示しているのかもしれない。
 ところで、ホールデンがなぜ映画が嫌いなのかに対するひとつの解釈を示したい。ホールデン現実世界を見ると人間のいやらしい側面が目につくが子供の論理には無条件降伏する。ほとんどの映画は現実世界のいやらしい部分を巧妙に隠し、人間の美しさを賛美(純粋な子供の理論を含む)する。この人工物にたいする違和感をホールデンは敏感に感じ取っているのではないだろうか。本の場合は人間のいやな側面を包み隠さず表現されるものが多い。いやな部分を主題とする場合もあるくらいである。