不用意にも社会から排撃された山椒魚。
はじめは岩屋(自己の殻)からの脱出を試みる。
が、手立てはなく、しだいに岩屋の中の居心地のよさに気付く。
そして、さも達観したがごとく社会を客体化し、自らが優位に立ったような錯覚をおこす。
その結果、自慢げに社会の集団(セクトと言ってもよい。)を批難するようになる。
社会の中で生きる者のことを無能、低能と吐き捨てる。
しかし、個人が社会から脱出して生きることは不可能である。結局、「個人」(日本おいては「家」なのだろう。)が行き着く先は社会なのだ。
それゆえ、しばらくのうちに自分を棚に上げていることに気付く。
(社会の傍観者という無責任な、逆に言えば、フットワークの軽い立場に身を置き思考停止している。)
だが、社会からの擬似的離脱の旨味を知った今、自分自身による社会復帰は不可能という危機的状況に変わりはない。
そこで救いとしての宗教に目覚める。宗教が与えるのは生きる意味と未来への希望である。
ただし、宗教的他力本願もまた思考停止の一つの側面に過ぎなくはないか?
その不安を払拭できず、共感者を求めて(新たなセクトの形成)不意に岩屋に入った蛙を閉じこめる。
「対話」により長い時間が経過(最後のほうはどちらも意識的無言だがこれも他者に意識が向いているため広義での「会話」に含まれるだろう。)したが、蛙の深い歎息を聴き連帯感の獲得を確信するも彼は間もなく息を引き取る。
時間にものを言わせれば、理解者を作ることは可能であり、それが生きる意味を与え、対話による意識改革を施す。これを<意識階層の上昇>と称する。
ただし、理解者の常在は、その<上昇>を無意識のなかへ落とし込む(言い換えれば非日常の日常化である。)
これまた厭になるが思考停止の側面と言えなくはないか?
自己を変えること(物理的にも精神的にも)ができない状況におて、不自由を忌み嫌う山椒魚は客体に対し能動的に働きかけるか、受け身的に相手の出方をうかがうしかあるまい。
「対話」とはすなわち人間個人の「現像液」である。(丁度Agが目に見える程に析出するのを助けるように。)
「友情」とはすなわち人間関係の「定着液」である。(丁度AgBrを溶解させAgをネガに固定するのを助けるように。)
「山椒魚」がどこか物寂しい雰囲気で幕を閉じるのは思考の回復を求めたにもかかわらず、対象に「友情」を求めたからではないだろうか。