―-人間の持っている感情とか思考とかって言うものが、生物としての進化の産物でしかないっていう認識まで行ったところから見えてくもの。その次の言葉があるのかどうか、っていうあたりを探っている。
後書きにもある通り「ハーモニー」における主題は身体と意志。つまり、古くはデカルトに始まった心身問題である。
体に打ち込まれたナノマシンによる完全監視、数値化、そしてそのデータが公開される世界。食事は全て管理され、最適化される。風邪などの軽い病気は撲滅され、逃れられない遺伝病だけが病気と認識される。街にあふれた過剰なまでの優しさは、人間から痛みさえも奪った。そこに身体はあるか。意識とは何か。
そもそも身体とは何か。近代的思考において身体は軽視された。人間の主体は脳にあると言われたり、心臓にあると言われたりした。一方で身体とはまぎれもなく物質として存在するものである。また、生殖、食事、睡眠を行うという意味において、極めて動物的なものである。当然その確かなものの中には脳も含まれている。人間が脳を使って思考するなら、これまで営まれてきた人間の生活だけでなく、科学や文化など産み出してきたもの全ては物質としての身体があったからできたとも言えるだろう。
当然、身体が生み出したものには、最小単位である家族から国家にいたるまで、様々な階層の社会全てが含まれる。社会と物質・生物としての身体は相補的で常にせめぎあっている。社会とは文化的暮らしを目指すものであり、物質・生物としての身体は排除されるべき対象である。ここには自らつくりあげた社会に抑圧される物質・生物的な身体という構造がある。現代においてもさまざまなものが排除された。赤ん坊は分娩室へ、病人は病室へ、死者は棺桶へ。生きるということは細分化され、全体像が見えにくくなった。食物はほとんどのものが既に殺され加工され、生きていた面影はない。人間は生きものを食べなければならない動物であることを忘れる。しかし、人間は食べなければ死ぬのでこの生物性を忘れ去ることは不可能である。
―-命を食すとは、昔からそのようなものだったのだ。ややこしい段取りのうえで、ようやく赦しを得られたのが、食料というものの本質だった。殺すことの本質であった。
一方で、物質としての身体の管理は医療技術の進歩により次々と外注化される。外注化=選択の放棄。身体は計測され、自分とは関係のない数字として記述される。それに従って行動が決定されるのでそこに選択の余地はない。そうなると、自分が身体を持っていることの自覚が希薄になる。しかし、物質が勝手に消えることはなく、病気やケガをしたときに物質としての身体が再び頭をもたげるのである。物質としての身体も生物としての身体同様、忘れられるが、忘れ去られることはできないのだ。
―-報酬系によって動機づけられる多種多様な「欲求」のモジュールが、競って選択されようと調整を行うことで最終的に下す決断を「意志」と呼ぶ
ならば外注化=選択の放棄=意志の放棄である。つまり身体を捨てることは意志を捨てることにつながる。
―-この世界に人々がなじめず死んでいくのなら、人間であることをやめたほうがいい