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子夏問うて曰わく、巧笑倩たり、美目盼たり、素以て絢と為すとは、何の謂いぞや。子の曰わく、絵の事は素を後にす。曰わく、礼は後か。子の曰わく、予を起こす者は商なり。始めて与に詩を言うべきのみ。(論語 八佾第三)
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子夏は先生に聞いた。
「『詩』に、『微笑みは愛らしく その目元は美しい 色白肌の引き立つチーク』とありますが、これはどう読めばいいのでしょう。」
「絵画に例えれば、最後の胡粉の彩色が、絵全体を引き締める、というようなものだろうね。」
「人格に引きつけて言えば、礼は最後、ということでしょうか。」
「僕を面白がらせてくれるのは、商、きみだね。一緒に『詩』について話したいね。」
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3ヶ月ほど、断続的ではありますが、論語を読んでいます。
大変難しい書だと思います。
読むこととは、
①,文章の意味をとり、
②,(文章の中に人がいる場合)、その人の意図を理解することであり、
③.その上でそれを書いた誰かの意図を理解することである
と私は思っています。
しかしながら、論語は①からして難しい。
例えば、上に引いた章で言えば、「絵事後素」に2つの意味の取り方があります。
ひとつは「素」を仕上げに使う白い絵の具、胡粉と見て、「絵事は素を後にす」と読み、「絵は白い胡粉で仕上げする」と読む読み方(今回採った読み方)です。この読み方だと「仕上げ」の方に発言の力点があります。
もうひとつは「素」を下地と見て、「絵事は素よりも後にす」と読み、「下地塗りをしてから絵画を描く」と読む場合です。この読み方では仕上げよりも、「下地」の良さを強調する言い方にも取れます。
今回の場合、いずれにせよその後「礼は後」と続き、双方とも似たような意味にはなります。しかしこのような読み方の違いが、章全体の意味を左右する箇所も論語にはあり、この書の「意味をとる」難しさが、この章からも想像できると思います。
登場人物を理解すること(②)も、制作者の意図を理解すること(③)も、文章の意味を取る(①)ことが覚束ない以上、それ以上に難しいことでしょう。
とはいえ、だからと言って論語が読めないわけでないはずです。これまでも、様々な読みが提出され、その中で、「論語はこのように読むのであり、論語中のかの人はこのような人である」という合意が緩やかに形成されてきたのだろうと思います。これから論語を読む私のような者は、そうした緩やかに形成されてきた解釈の合意に従って、まずは読んでゆけばよいのでしょう。
上に子夏と孔子の問答を引いたのは、論語を読む難しさを言いたいがためだけではありません。この問答が論語自体のひとつの読み方を示唆しているように私には思えたために、この問答を引きました。
吉川幸次郎氏によれば「巧笑倩たり……」の句は衛の荘公夫人、荘姜の美貌を讃えたものだそうです(吉川幸次郎『論語(上))。しかし孔子はそれを絵画とのアナロジーで捉え、子夏は更に飛躍して人格と礼の関係のアナロジーとして読み込んでいます。つまりここで、孔子と子夏は、自らの教科書であった『詩』を、本来の意味のみにこだわらず、自分たちの関心によって読み替えているのです。そうであれば論語を読む私も、その姿勢を引き継ぎ、必ずしも論語の本来の意味、正しいとされる意味のみにこだわらず、私の関心によって意味を読み替えることが許されるのではないか。この子夏と孔子の問答はそうしたことも示唆してはいないでしょうか
これまでの論語解釈二千数百年の伝統を尊重しつつ、私の関心で論語を読みこむ。しばらくはそうした態度でこの書に向かいたいと思います。
なお、訓読は金谷治『論語』岩波文庫(1963)によりました。また、現代語訳は訓読の意味に沿いつつも、子夏と孔子が現代で語っていたらどんな場面になるだろう、と想像しながら自分で作りました。