ビーマンエアラインの用意したシェラトンホテルで朝食を前日バングラデッシュの空港で出会った日本人の頼もしいお姉さんと私と友達の3人は航空会社の用意したリムジンバスに乗って空港に向かった。ビーマンエアラインのストライキはどうやら終わったらしかった。詳細は英語が全く分からずしまいだった。

そうこうしているうちに私たちの乗った飛行機はあっという間にネパールのカトマンズの空港に降り立った。

飛行機を降りてとても驚いたのだが、国際空港でありながら飛行機のタラップを降りた後は空港のターミナルまで徒歩だった。田舎に来たなあ・・と思って歩いていたら同じ便に乗っていた外国人の旅行者らしい人が何やら興奮気味だった。彼らの指をさす方向の先には夕日に赤く染まるヒマラヤの峰々があった。

そのころはもちろんスマホがあるわけでもなく、フィルムカメラを持って行ったのだが、私はその光景をカメラに収めてはいなかった。なんせ貧乏旅行だったし、限られたフィルムのことを思うととっておきの1枚を狙いたかった。にもかかわらず、40年もたった今でも私の心の中にその山々の風景がある。

 

税関を出るころには私たちは、出会ったその日本人のお姉さんが日本青年海外協力隊でネパールについていたご主人に会いに来て、宿のあるタメル地区まで行くというので、厚かましくついていくことにした。調べると、お姉さんの止まる予定のホテルは貧乏旅行者には手が出なかったのだけれど、そのホテルのまわりには一杯ホテルがあることをわかっていたので、どうにかなると考えていた。

 

タクシーに3人分の荷物を積んで、そのタメル地区をめざした。タクシーの中からけれて行くカトマンドゥの街並みを眺めていた。結構な人が夕飯の支度をしているのか?あちこちから懐かしいマキをくべる匂いがしていた。そのころのカトマンドゥの町は地震が無かったこともあり、レンガを積み上げたような作りの家がさすが首都だけのことはあって所狭しと立ち並んでいた。家路を急ぐ人、街中のラジオからは昔万博で聞いたシシカバブーのようなメロディーラインの女性の甲高い声の歌が流れてきていた。街の灯りは電球の黄色味お帯びた灯りだった。

そんな景色を眺めていたら、不思議な感覚が私の中に湧き上がってきた。それは何とも言えない懐かしい気持ちだった。この感覚はどこから来るのだろうと考えているうちにどうしようもなくこみあげてくるものがあった。今にも涙があふれそうでその驚きと共に一人混乱していた。

 

その時の感情が何を私に教えていたのだろう?今でももう一つ分からないけれど、インドの旅の前にちょっと立ち寄るだけのつもりだったネパールとその後の人生長きにわたりかかわりを持つことになるとはその時は夢にも思わなかった。