昨日は半分自分の忘備録を書き始めたようなものではあったのだけれど、この文章たちの中にも誰かに引っかかる何かがあって、誰かの心の後押しというか気づくきっかけになればうれしいなと思いながら書いていこうと思うのです。

 

昨日は人生初の記憶を書いてみた、なぜそんなことを書くのか?というとまた、とてつもなく説明をしなければならないのですが、生まれてきてこのかた、お金のコントロールがなかなかできずにいた。

 

なぜなんだ?なにか私はほかのひととちがって何かがおかしい・・??そのおかしい私にまったく気にせず、生きていた夫もおかしい。

 

なんとなくおかしい自分にずっと悩み、どうしたらお金をかせげるのか?全然わからなかった。

働いたらよいことなのに働いたら気が詰まってきて、疲れて長く働くことが出来ずにいた。正社員なんかとんでもなくていつもパートかアルバイトだった。

類は友を呼ぶとはこういうことか?というくらい、奴はやつで逃げ道がほしいからとずっとアルバイトの生活だった。

そんな生活でよく子育てができるねと言われていた。

言われても体が言うことを聞いてくれなかったのだ。どうしても動けなかった。ではどうして育てたのか?

 

それは私といわゆる共依存の関係にあった母のお陰だった。

今でこそお陰と言えるのだけれど、ちょうど10年前に鬼籍に入るまでずっと家の外では某有名病院の総看護師長を務めあげた地域の頼りになる存在として、絶対的なものを持っていた人だった。

そんな彼女のストレス全般を私は引き受けていたのだった。

多分小学校の4年生くらいからか?記憶の中の私はそれまでキラキラと楽しく輝きを放っていたかのように見えた世界がつまらないものになっていった。

おぼえては無いけれど、母親は自分の母と私を養うことに必死だったのだと思う。

そのころから、常にしかられ、母の顔色をいつも気にしていたように思う。

それから40年近く怒鳴り続けられていた。怒鳴られる代わりに生活を守られていた。

つまり、母の人生は幸せでないことの八つ当たりを受けていた、ずっと。

幼い私は、嫌われているんではないか?と思うのも怖く、いつも母にどうしたら好かれるか?ばかり考えていた。そしてそのまた奥に芽生えた母への嫌悪感を飲み込んで生きてきた。

 

旦那さんは?と思われる感しれないが、彼は男兄弟で育ち、母子の関係を知らなくて、私たちのようなのが普通だと思っていたらしいのだが、ある時、”あなたのお母さんはあなたのことがきらいなのか?”と尋ねてきた。

私はひた隠しにしていた、母に嫌われているかもしれないという恐怖をその時、やっぱり、そうだったんだ、、、と認めざるを得なかった。

 

本当はずっとそうなんじゃないかと思って悲しくなっていた。どうやったら母に愛されるか?そればかりを考えていたけれど、30歳を過ぎても嫌われ続けている母のことが嫌いになってもいいんだと思いだしたら、少しは気持ちが楽になったのを覚えている。本当は心の奥底に母に対しての絶望感があった事にも気づかずにいた。

その絶望感は私の最初の記憶、父のお葬式の前後に完全に私に植え付けられたと思う。私が金切り声をあげて泣いていた記憶がある。でも誰も私の方を見ず、屍となった父のまわりに集まっていた。ずっと誰かに抱いてほしくて泣いていた。目の前に一人、一つ上のいとこの女の子が泣き叫ぶ私を途方に暮れながら見つめていた顔が忘れられないのです。この時、大人に絶望したのかもしれない。

 

どうしてそんなことを言うかというと、つい最近調べ物をするために訪れた図書館でHSPについての本に目を通す機会があって、あまりにも自分との共闘宇高が多くて驚いたのですが、なんかどことなく違うという違和感を持っていました。

それでも何とか今の気持ちを昇華させて、思いどうりの生活をつかみ取りたい。60歳を過ぎているんだけど・・自分の命がなくなるのが先か?つかみ取れるものがあるのか?

 

自分の長年の課題を解決してこの世界の仕組みを知って生きてみたいのです。

そんなことを思いながら、目につく本を(kindleで読み放題)片っ端から読んでいたら、気になるワードに出会いました。

 

それはエンパス!!読み始めて驚いたのは誰にも語った事のない、私の胸のうち奥深くに隠して(私は隠し事が多いな)いた、家についての事について書かれていました。

えっなんでそんなことを知っているの?・・エンパスのあまりにもたくさんある特徴が私と重なり始めました。

 

エンパスの特徴のいくつかが私とリンクし始めたのです。それは本当に長い時間悩んでいた、母との関係、お金との関係(これは今もってじり貧)の解決への道が見え始めたということなのです。