「私にとって神とは 」    遠藤周作 著


自分の人生を単独な自分のみの人生と考えないで、父親 母親をはじめ、いろいろな人を合わせた総合体としての場で、自分が成立しているのだということを考えたのです。


人間のいい部分とか、きれいな部分だけしか認めないような者は、本当は宗教ではないと思います。


聖書だけを読めば、大抵キリスト教徒になると考えるのが間違いなので、人生の苦しみもなく法華経を読んで仏教徒になる人も滅多にいないでしょう。ーそこに人生の裏付けが必要だと思います。


神も仏も無いものかというのが「なんぞ汝を見捨てたまうや」です。そこから、本当の宗教が始まります。


キリスト教とキリスト教徒信者とは違う。


キリスト教徒だって人間だから、女房もひっぱたくし過ちも犯すでしょう。それでもその過ちを後悔して立ち上がりまた転び、また立ち上がりというのがキリスト教徒の歴史です。最終的には、キリストの教えに向かおうとしてこそ信者なのだということが私の考えです。


執着しているものを通して、救いが来る。


我々は相手に関心があるから憎むのではないでしょうか。

罪というものは、けがすことである。善いという事は清浄であるというのが、日本人の善悪に対する根本的な理念です。


キリスト教の場合の救いというのは、私の考えですが、自分の存在を純化する事ではないのです。神によって、またキリストを信ずる事によって自分を聖化することです。


日本では聖ということは「ひじり」と言いますが、ひじりというのは火を預かる事と、日を知っている 暦を知っているということだそうです。
古代人にとっては、いつ種を撒いて、いつ田植えをすればいいかという事が大事な事でしたから、そういう事を知っている人を「日知り」と言います。神様に物を捧げる行事の事を、ひじりといいました。
つまり、知る事が「聖」なのです。


自分の救いについて絶望している状態を、悪魔というのです。


目に見えないほこりが 、いつの間にかどんどんたまって部屋が汚れているのと同じように、人の心の中で愛を失わせるものがどんどんたまっていく、それを悪魔の働きというのです。


こうしたらいかん、ああしたらいかんという事を守っていると、自己満足もあるし、俺は修行しているんだという虚栄心も起きてくる。それに、したらいけない事をよけい意識する。時には それを守らない人を軽蔑したり、いろんなよけいな要素が入って来る場合もあると思います。


仏さんとキリストとマホメットと、三度 見合いをして自分の体質や境遇に、一番合っている宗教を選んだらいいではないかという気がまずします。


イエスが説いたのは裁きの神ではなく、愛する神、許す神であったのです。神は、何を過去にしていても最後に、本当に俺は悪かったと後悔する者は救われるのだ、と言ったのです。


🍎😊皆さん、いつも読んで下さってありがとうございます。今回は弱き者の味方 ? 遠藤周作さんの作品からの抜粋です。
確か映画化されたのもありましたよね。
こんな眉根を尖らしそうな事を書くかと思えば、なんか隠居爺さんの馬鹿話等も書いたりして読者を楽しませて下さいました。
後日、名言なども紹介できればと思っています。
今年も2月目に入りました。以前ならば旧正月の月、1月にスタートが出遅れても今月があります。2月は寒さのピークですが、もう春は目の前です。
ここイエメンは段々暖かくなってきています。🌱🐦🌸