〈23〉で、学童保育が不登校支援の拠点になり得るか考えました。


なり得るが、支援員へのサポート無しに、また不登校についての知識もない時給働きがやることではないと書きました。


筆者の放課後児童クラブでは、今年も不登校児童対応に苦慮することが決定しましたので、また不登校について考えたいと思います…




現場の感覚として、不登校には"学校に行きたいのに行けない"というのと"学校に行きたくないから行かない"とか"そもそも学校に行く必要がないから行かない"といった謂わば種類があるように感じます。



筆者は後者2つを積極的不登校と呼びます。


真実はさらに細分化されていて、支援のパターン化は困難なのではないかなとも思っています。

低学年で不登校になるのと高学年で不登校になるのとでも違いますし、神経発達症(発達障がい)の有無や保護者の関与割合によっても深刻度が変わります。

なのでアプローチの仕方は多岐にわたるし、綿密に考える必要があります。

苦しい思いをしてまで行く必要はないというのもよく聞くようになり、そういう選択もあるのだと思います。

ただ学校教育を受けられない、受けないことを選択するならば、別の方法で子どもに教育を与えることが必要です。

子どもには教育を受ける権利があり、子どもに教育を受けさせる義務が国民にはあります。

義務教育はそれが小中なら無償だよというだけで、学校教育が義務ではないですからね。

ただ学校以外で親が教育を与える機会として、フリースクールやネット環境で選択肢が増えているとは言え、かなり難しいことかなと感じています。そこに繋がれる家庭はわずかという印象です。

親自身のバックグラウンドとか、認識とか意向が全てを左右しますよね。



ここでもう一度言っておきますが、筆者は元看護師だっただけの支援員です。不登校について大したことは知りません。

自分の子どもは不登校ではありませんが、いつ何をきっかけに当事者になってもおかしくはないとの認識はあります。

勤める放課後児童クラブで積極的不登校児童の受け入れを巡り公的支援の手薄さや家庭保育の脆さなどを目の当たりにして、この地域で子育てすることが正直とても不安です。



さて、学童保育は放課後の子ども達の生活の場です。

放課後です。どの資料教材にも明記されています。

学校教育ありきの学童保育として考えられていますよね。

不登校を想定していません。

その一方で、子どもが不登校であろうと無かろうと、保護者が働いていれば子どもの居場所について悩むのも当たり前です。

家に引きこもって社会とのつながりをどうしようというケースもあれば、学校には行きたくなくて家に引きこもるが、イベントや遊びには行きたくて行くケースもあります。

どちらにせよ、その居場所の一つとして学童保育を利用しようとする保護者がままいます。

ここで一度気付かねばなりません。

学童保育は放課後の育成支援の場です。家庭保育へ繋げるまでの生活の場で、社会性を育むためのものです。

保護者が働いているから預けたいというだけの託児所ではありません。

国も自治体も学童保育を説明する時に、託児であるようにしか記さないため、保護者含め社会一般の認識を誤ったものにしているのです。学校の先生ですら間違った認識であることも多々あります。

子ども達はただ学童にいて、遊んで親の帰りを待っているだけではありません。

ルールやモラル、コミュニケーションでの摩擦を経験しながら、道徳心や倫理観を学んでいく場です。

不登校という現象のバックグラウンドを探らずして、学童保育に放り込んだ時、子どもに何が待ち受けているのか。一度考えた方がよいと思います。

"とにかく居場所を"というのは、短期的に見ればアリでしょう。

しかし中長期的に見た場合、何の目的で学童保育に身を置くのか、どうなっていきたいのかを当事者を中心に関わる者みんなで考えておかないと、学童保育が本来の役割を果たせぬまま、ただ支援員が疲弊して、子ども本人のためにもならなかったということもあるのです。

継続的支援にならず、不登校支援として失敗したということになるのです。