「この子はこだわりが強いな」
「この子は相手の気持ちを汲み取るのが苦手だな」
「この子の心は寂しさでいっぱいだ」
というのは、子ども達と関わっているとわかります。
それは
「この子は勉強することが好きだな」
「この子は想像力が豊かだな」
と気付くことと同じです。
これらは決めつけでも何でもなく、放課後児童支援員として見た客観的情報です。
アセスメントは、この客観的情報に子どもが実際に言ったりやったりしたことを合わせて考えます。そしてどう介入するか計画を立てます。
この過程は支援員一人でも出来ます。
大事なのはその後です。
ここで終わるから決めつけになるのです。
一人の支援員が得た情報や考えたアセスメントを、共に子ども達に関わる支援員と共有し、話し合う必要があります。
これにより多角的な視野で再度アセスメントに入ります。
そこで必要と判断されれば、情報共有の範囲を小学校や発達支援センターなどへ広げて、より適切な介入方法を検討するのです。
そして立てた計画は保護者へ開示し説明します。
本来の支援ステップはこうなんじゃないのですか。
結局学校も学童も、この過程をきちんと構築できないから、他者の視点を入れられないから、一人で決めつけてかかって、狭い空間で不適切保育、不適切教育と言われる関わりがされるのではないですか。
神経発達症(発達障がい)やグレーゾーンについては、さらにこの過程は重要となります。重要となるのに、現実は過酷かつ残酷です。
診断できるのは医師のみです。
どんなにアセスメントしてその可能性が排除できないとしても、ここで詰みます。
なぜかって、保護者に指摘することができないからです。
保護者が「この子のこんなことで困ってて…」と相談してくれない限り、必要な機関を紹介することすら現実的には難しいです。
放課後の集団生活を運営するのに困っているのは事実なのだから、せめて支援員への助言サポートがほしくて相談しようと思っても、筆者の放課後児童クラブのようにどことも連携を図れないところもあります。
誰も助けてくれないのだから、ここでも詰んでます。
診断されていないからといって、グレーゾーンだからといって、"他の子と一緒"の対応をして何も起きないわけがありません。
事実として、支援員の心の中で"特性"として捉え、それに応じた対応をする必要がある場合は必ずあります。
これを決めつけと言われたら、そうですとしか言えないかもしれませんけどね…
診断ついておらず、"そういう子"として育ってきた、これからもそう育てられていく子ども達。
感情や加減をコントロールできない
言葉を選べない
相手の表情から気持ちを想像できない
相手の意見を受け入れられない、聞けない
自分の言動の記憶がない
そんな彼らが起こす様々な事態。
子ども達を見ている大人として対応してもどうにもできません。
単純な「どうしたの?」「やめなさい」「言ってごらん」「お友達が嫌がってるよ」「仲直りしよう」は通用しません。
クールダウンさせる必要性の有無、寄り添うのか離れるのか、言わせるのか代弁するのか、伝えるのか注意するのか、どんな表情でどんな声色で、どんな言葉なら理解できるのか。
一人ひとりに合わせた対応が必要で、継続支援が必要です。
どんな子かわかれば支援できます。支援を積み重ねられたら子どもは生きていく術を身に付けられます。
寧ろ"そういう子"として特性に目を向けない方が、決めつけになっているのではないでしょうか。