そもそもなぜ小学生が「めんどくさい」の一言で大人に歯向かい、友達を遠ざけ、自分の殻にこもるのでしょうか。
たった数年間をどう生きてきたらそうなるのですか。
発達の問題もあるかもしれない。
児童精神学の視点なら見えるものがあるかもしれない。
家族といる時はどうしているのだろう。
同じように「めんどくさい」と言うのだろうか。
逆に親の前では良い子をしているんだろうか。
家族から日時的に「めんどくさい」と言われる経験があるのだろうか。
どんな気持ちでその言葉を選んでいるのだろう。
その言葉の意味をわかっているのだろうか。
言う前に言われたらどう思うのか想像できないのはなぜだ。
事態を予想することや気持ちを汲み取ることが出来ないのか。
出来ないならなぜ親は気付かないのか。知らないのか。知ろうとしないのか。
なぜですか。
療育の視点なら介入する方法があるかもしれない。
発達段階、発達課題をアセスメントする。
必要機関と連携する。
介入方法を具体的に考える。どう自分の気持ちに向き合うか、どう言葉を選ぶか、どう伝えるか。
介入するというなら計画が必要になる。短期目標、長期目標を立て、保護者に開示する。
介入したら評価も必要になる。
それを繰り返す必要がある。
しかし学童保育は療育ではない。保育計画など無い。
では子どもの行き場はどこですか。
誰が適切に介入してくれるのですか。
現実的に療育を必要とする子どもに、現実的に療育の保育技術を提供している子どもに、「学童保育は療育ではない」と言い聞かせながら介入する放課後児童支援員とは。
「めんどくさい」
たった一言。
でもその一言を言うまでに、子どもの中ではそれに至る過程があったはずです。理由があるはずです。
そこまで見てはじめて、子どもを見るということですから。親も関わる大人も。
それを考えられる大人が少なくて、バラバラで。
結局どうにも出来ぬまま、今日も「めんどくさい」と向き合うのです。