病気や大きな怪我、それに伴う死もそうですが、それが自身に起きたこととして受け入れる、受容するためにはプロセスがあります。

危機モデルというもので、いくつか種類があります。どんな人がどんな障がいや危機に直面したかによって、どの危機モデルを活用するかは違ってきますが、発達障がい(神経発達症)については障がい受容のものが一番適当なのでしょうか。

診断を受けたなどの際のショック、それを認めたくないという否認、悲しみや怒りが混在する時期を経て、適応、再起していく。もちろんそのスピードは人により様々で、時に前段階へ戻ったりしながら徐々に受容していく。



親の中には、この否認のところから進んでいかない、否認と怒りを行き来しているのが何年も続くという人もいます。

怒りの矛先は親自身であったり、保育士や放課後児童支援員など支援者に向くこともあります。

支援者に怒りの矛先がある場合、信頼関係がどれほど構築されていたか、どのような支援をしようとしたか、実際どう声かけや提案をしたか検証したら、支援の失敗だったということもあります。

だからこそ、支援する側は他職種連携が必要だし、情報収集、アセスメントする力も必要だし、介入技術を高めることが必要です。




そして学童期で支援技術の難易度が高くなるのはどんなケースか。

幼児期で指摘されずに過ごせていたけど、学童期に入って困難感が露になるケースです。

親自身が幼児期から発達について何らかの不安や気付きがあった場合は、比較的受容がスムーズだったり、介入によって不安を少し解消してあげられたり、それこそ家庭と学童保育の両輪で適切な保育ができる可能性も高まります。


その一方で、発達障がいへの偏見もまだ根強いために、「我が子はそんなはずない」「レッテルを貼ってくれるな」と頑なな親もいます。

他者からはどう見ても困っているのに、親はそれに気付けないという場合もあります。

支援というものは、一方的に入るものではありません。

結局そこにニーズが無ければ介入できません。

児童支援や発達支援の場合、子どもを主体に考えるものではありますが、よほどの家庭環境でなければ親の意向を無視することはできません。

そのため本当に頭を抱えます。

他害や気持ちの切り替えが出来ないなど、現実的に目の前にいる子どもには、それ相応の介入をせざるを得ません。しかしそれが親には伝わらない。伝えられない。

起きた事象という事実は伝えますが。

本人や親は困ってないけど、周りの子どもや支援員はとても困っているなんてことも多々あります。

今年度も始まったばかりだというのに、もう何度頭を抱えため息をついたことか…



そして難易度が高くなる理由はもう一つ。

学童期に入ってからでは、発達の凸凹を誰も指摘できないからです。

放課後児童支援員も学校の先生も、指摘してはいけないとされています。不用意に決めつける者がいるからでしょう。

発達障がい(神経発達症)の診断は医師にしかできませんから、「あなたの子どもADHD じゃない?」なんてことを言ってはいけないのは当たり前です。

そのため知識が豊富な支援員がどんなに早期発見したとしても、保護者から「実はご相談が…」と言われないかぎりは何も出来ません。

支援員がどんなに支援に繋げてあげたいと思っても、せめて自分達だけでも適切な介入をと、研修内容や書籍などを頼りにやってみても、結局療育の真似事以上のことはできないので、見逃しているのと変わらないという事実に無力感しかありません。

放課後児童支援員は、起きたこととその時の子どもの様子の事実を伝え続けるしかありません。

頼むから、親が発達障がい(神経発達症)への理解を深めてほしい。自分の子どもをよく見てほしい。

そして気付いたことや考えていることを教えてほしい。

そしたら、親と子にもっと深く寄り添えるし、必要機関、職種に繋げてあげられるし。一緒に子どもを支えてあげられるのに。