続編:Schlesien(シレジア)地方の文化財と風景の絵画の制作 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

             ”Schloß Slawentzitz”

 

2011年より描き続けて来た天台寺院の絵は現時点で61点まで数えられ、流石に余が自ら参拝、撮影して来た同宗の寺院の写真も尽きてしまった。
3月31日には我がドイツの地元Brandenburg州の都Potsdamに住む我が友人S.Radtke氏が余の頼んでおいた図書"Historische Ansichten von Schlesien"(Heinz Csallner著)を送り届けてくれた。
此の本は旧ドイツ領の歴史的な文化財、都市、風景、等の(白黒)写真を多数収録している。
これ等の中には第二次世界大戦によって、破壊されて再建されなかった文化財や、町並みの写真が含まれていて、これ等は現在では現地へ行っても見る事が出来ない故、貴重な参考資料なのである。
同じくHeinz Csallnerによる図書"Historische Ansichten von Ostpreußen"並びに"Historische Ansichten von Westpreußen"と同様に、余の今後の絵画制作の為に重要な見本として大いに役立ってくれる。
かくして此の図書を元に再び旧ドイツ領のDeutsches Kaiserreichs Zeit(ドイツ帝国時代)の白黒写真を元にカラー(油彩)でSchlesien(シレジア)地方の文化財と風景の絵を制作する仕事に戻るのである。

此のSchlesien地方の歴史の概要を書くと以下の通りである。
紀元後100年頃に先ずゲルマン民族が定住し、其の後500~600年頃には西スラブ民族が定住して、其の基礎が築かれた。
1137年にはボヘミア公国(後に王国)とポーランド王国の協定により其の領土が確定し、翌年にはポーランドの第一王子がHerzogtum Schlesien(シレジア公国)を成立させた。
1201年以来、公爵の政策により当国にはドイツ人と、オランダ人の移民が増加した。
1241年にはチンギス・ハンの率いるモンゴル軍の侵略を受け大打撃を蒙り、1289~92年にかけてHerzogtum Schlesien(シレジア公国)は解体された。
1348年、Schlesien地方はHeiliges Römisches Reich(神聖ローマ帝国)の一部として、Königreich Böhmen (ボヘミア王国)の支配下となった。
1526年にはSchlesien地方は Kaisertum Ösretreich(オーストリア帝国)の領地となった。
そして1742年にはFriedrich大王陛下の率いられるPreußen軍に占領され、3度に渡る“Schlesischer Kireg”(シレジア戦争 1740~1763年)に勝利したKönigreich Preußen(プロイセン王国)の領地となった。
同王国によって1871年に統一されたDeutscher Kaiserreich(ドイツ帝国)に引き継がれ、第二次世界大戦が終了した1945年までドイツ帝国領で、以後ポーランド領となり今日に至っている。

Königreich Preußen(プロイセン王国)は元々1618年にKurmark Brandenburg (ブランデンブルク選帝侯国)がHerzogtum Ostpreußen(東プロイセン公国)を相続して其の基礎が成された。
其の後Großkurfürst (大選帝侯)Friedrich-Wilhelm公によってHinter-Pommern地方やBistum(大司教領)Magdeburg等を獲得して領地を拡大した。
そして1701年には国王FriedrichⅠ世陛下の元に初めて王国として成立した。
しかしながら当時のヨーロッパの大国、フランス王国、ロシア帝国、オーストリア帝国に比べて、国土も小さく、経済的にも貧しいが故、Friedrich-WilhelmⅠ世陛下の統治時代には国防の為に軍事力の強化が図られた。
彼の後を継いだFriedrich大王陛下は更に拡大した精強の軍隊によって、新たなる領土拡大を目指された。
新興国家のKönigreich Preußen(プロイセン王国)にとって此の大層肥沃なSchlesien地方の獲得は、正に”Strategie zum Überleben”「生き残り戦略」であった。
Schlesien(シレジア)地方の都市と文化財の際立つ特徴として、18世紀のBarockからRococo様式の流行った時代に建てられた細長い塔が多く見られる事、そして同じく18世紀から19世紀にかけて建立された数多くの城郭である。
此れは当地方がKönigreich Preußen(プロイセン王国)の領地となって以来、目覚ましい進展を遂げている事を象徴しているのである。

昨年の12月15日より”Schloß Neudeck”『ノイデック城』を描き始めている。
此の城は1869年から75年にかけてフランスのBarock建築そして宮殿の最高峰とされるはChâteuau de Versaille(べヴェルサイユ宮殿)手本に設計されていたので、成程其の外観はVersaille宮殿に類似している。
しかし残念ながら、此の城も1945年にソヴィエト軍の理不尽な放火によって破壊され、遂に1961年には其の残骸も完全に撤去されてしまっている。
即ち此の城を描く為にはどうしても戦前の白黒写真を参考資料として使用しなければならない。
ところが前記の余が所有する図書"Historische Ansichten von Schlesien"を見ても、インターネット上で画像検索しても、此の城の細部まで詳細に把握出来る画像が見当たらないのである。
其れ故に唯一の補助手段として、余が1987年3月に訪ねたVersaille宮殿の写真も参考に描いて行く事にしている。
其の様な理由で制作に於いてかなりの困難が伴い、又同時期に心配事で神経に負担が掛かっていた為、思う様に製作に集中出来ず予想外の時間がかかり、ようやく1月31日に完成に持ち込む事が出来た。

 


月が変わって2月2日より”Schloß Lorzendorf”『ロルツェンドルフ城』を描き始めている。(画像)
此の城も第二次世界大戦末期に破壊されて現存しない故、前記の余が所有する図書の白黒写真を元に制作を進めて行かなければならない。
此の城はかつてのPreußen王国内の至る所に見られる所謂”Neogotik”(新ゴシック様式)で建てられていて、其の典型的な特徴であるSpitzbogen (先端の尖ったアーチ)、Treppengiebel(階段状の切妻)、Zinne(鋸状の壁)そしてErker(屋根の突出窓)等が見て取れる。
我が館(実家)も余自らが同様に ”Neogotik”(新ゴシック様式)でデザインして建てている故、これ等の典型的な特徴を全て有しているので、此の城には共通点や類似性を感じるのである。
心配事の解決の目途が立った事で、精神的に開き直れた御陰なのか、此の作品は予想より早く2月18日に完成した。
城を囲む秋の風景と池の水鏡が詩的な雰囲気を醸し出している。
前作の制作に余りにも時間を費やしただけに、今回の作品の完成により時間を取り戻した感がある。
とは言え此の城が最早此の世に現存し無い事を思うと、何とも感傷的な気持ちになるのである。



2月19日より”Schloß Koppitz”『コピッツ城』を描き始めている。
此の城は1783年よりNeoklassik様式、更には1864年よりNeogotik様式やイギリスのTudor様式等の複数の歴史的様式を取り入れた所謂“Eklektizismus”(折衷主義)の様式で増築されている。
第二次世界大戦を無傷で生き伸びたのだが、戦後ポーランド領になって後の1958年頃から放火、略奪、等の理不尽な犯罪の犠牲となり、今日も予算難を理由に修復される事無く廃墟のまま残存している。
3月8日~13日まで余は家族の大事な用事の付き添いとして我が館(実家)を離れなければならなかった為、此の期間は此の城の絵の制作を中断しざるを得なかった。
そこで此の期間は色鉛筆と鉛筆型水彩絵の具でデッサン、即ちBeethovenの肖像、猩々、公家の姫様を模った京人形、百合、そしてカーネーションの花束の計5点仕上げた。
かくも短期間に立て続けに5点ものデッサンを仕上げたのは、久方振りである。
13日に帰宅した後、此の城の絵を3月15日に完成させた。

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