赤い手袋 柴田勲 | ほぼ日刊ベースボール

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野球選手の熱い過去や意外な背景を主な切り口に、野球への熱い想いを綴ります。



柴田勲





福本以前のパリーグ通算盗塁王が広瀬、それではセリーグは誰か。あまり知られていないが、柴田勲の579がセリーグ1位である。



2000本安打を達成しているにも関わらず、打率3割を一度も達成したことがないのは意外だが、スイッチヒッターでの2000本安打も初めて。常勝巨人のトップバッターとして高度なチームバッティングも求められたと思うが、それを考えれば打率3割未達は必然かもしれない。それ以上に塁に出、走ったその功績が称えられて然るべきであろう。



高校時代は法政大学第二高等学校のエースピッチャーとして甲子園大会で活躍した。法政二高は1960年の全国高等学校野球大会優勝、続く1961年の選抜高等学校野球大会も優勝し、夏春連覇を達成した。都会的で洗練された野球は高校野球史上最強と呼ばれた。怪童・尾崎行雄の浪商とのライバル物語は有名で、3度対戦がある。法政二高の3連覇がかかった1961年の夏の甲子園で両者は準決勝で対戦し、延長11回2-4で浪商が3度目の対戦で勝った。そして浪商はその大会の優勝を飾った。



尾崎がどれくらいすごかったかというと、ビデオから計った球速が159km/h。投げる球はほとんどストレート。実際、私の父が全盛期のブルペンでの全力投球を間近で見たというが、鉄の玉が唸りを上げてミットを叩くような球筋に背筋が凍ったという。

実際、甲子園優勝を果たした2年生時に浪商を中退、プロに飛び込んだ1年目に20勝9敗、防御率2.42。まさに高校生の中にプロ中のプロがいたわけである。



話を戻すと1962年に読売ジャイアンツに入団。一年目から開幕一軍となり、開幕第2戦(対阪神タイガース)で先発起用される も5回途中でノックアウトされる。その後も投手成績は芳しくなく0勝2敗で「投手失格」の烙印を押される。そして野手に転向し両打ちに取り組み、翌1963年にレギュラー獲得。以後スイッチヒッターの1番打者として活躍した。



1980年に2000本安打を達成し、柴田はその年限りでの引退を決意していたが、シーズン終了後に長嶋茂雄が監督を辞任して、新監督に就任した藤田元司から慰留され、翌1981年も現役続行する。巨人はその年リーグ優勝、そして日本一を達成している。柴田は日本シリーズの第6戦に5番レフトで先発出場している。日本シリーズは10打数4安打を記録、これを花道として現役引退した。



高校時代の栄光、プロ入り後の挫折、そしてV9を支えた輝き。トランプ賭博の現行犯で逮捕され、その後の記者会見にトランプのトレーナーを着て臨むという伝説も残したが、現役時代の輝きは色褪せることのない選手の一人である。