日ハム影のMVP・白井ヘッド(3) | ほぼ日刊ベースボール

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白井ヘッド




 「将来はチームに残って指導者に」。白井は日ハムでの現役当時、漠然とそう思い描いていた。ところが95年に予期せぬ戦力外通告を受け退団。しかもオリックスに移り、プレーを続ける選択をする。約束されていると信じていた道は閉ざされたかに見えた。

 しかし翌年、引退を表明した直後に古巣から「戻って来ないか」と声がかかった。といっても、1年前に解雇の断を下した監督は在任し、現場のスタッフに加われるはずはない。そこで白井は米国でのコーチ研修に送り出される。派遣先は球団が業務提携しているヤンキース。秘めていた念願がかなった。当時、共に汗を流した僚友に後に一緒に日本一を経験するヒルマンがいた。

 監督交代に合わせ、00年に2軍総合コーチとして現場復帰。01年から2年間、2軍監督を務めた。子供の頃、野球選手と同じくらい教師に憧れていた白井は両方の夢が一緒にできると心を弾ませた。

 

 自分の経験を振りかざす指導者にはなりたくなかった。選手が監督の顔色を伺いながらやっていたら、能力を発揮できないという持論があったからだ。そのため声を荒らげて命令したり、ミスを叱責することはしない。十分な準備をし、全力を尽くしての失敗は構わない、学ぶことがたくさんあという余裕のある指導を目指した。




 従来の常識にとらわれない選手育成は奏功し、白井が就任してからの2軍はイースタンリーグで最下位から2位へと躍進。監督に最もやりやすい環境をつくるとともに、監督の考えを選手に分かりやすく伝えることが自分に与えられた役割と割り切った。




 実はヒルマンの招聘は白井が球団に強く推薦して実現したと言われる。ヤンキース傘下のマイナー監督としてジーター、ソリアーノらを育てた手腕には定評があり、指導方針にも共鳴する部分が多かった。同時に自身も補佐役のヘッドコーチに就任する。


 新体制による改革は日本式の球団経営に風穴を開けると注目された。当時、米流を持ち込むのでなく、日本のいい部分と融合して新しいスタイルをつくり上げるとともに3年、5年したら、球界全体を変えていくことを長期的な目標にした。


 日ハムは04年から本拠地を札幌に移す。リーグ優勝から20年以上遠ざかり、観客動員も頭打ちのチームを再生する「最高のチャンス」と受け止めた。




 ヒルマン政権の来期続投が決定した。時期監督の有力候補の1人が白井であることは間違いないと思われる。「監督は最終のゴールでも何でもない。ヘッドコーチとしてはみじんも考えてはいけない」。立場を踏まえ、きっぱりと打ち消しながらも「野球人として魅力がないと言えばうそになる」と意欲も本人は否定はしない。「たとえ将来そういう時期がきても、やれる自信はあるし、そのための準備もしてきている」と言い切っている。