日ハム影のMVP・白井ヘッド(2) | ほぼ日刊ベースボール

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野球選手の熱い過去や意外な背景を主な切り口に、野球への熱い想いを綴ります。






白井一幸
 


 94年に2塁手として連続守備機会無失策のパリーグ記録を更新し、シーズンの2塁手最高守備率もマーク。連続守備機会無失策「545」の金字塔は現在も破られていない。ただ、選手生活晩年は持病のひざ痛が響き、打撃成績は精彩を欠いた。




 日ハム以外のユニホームを着た白井一幸を、どれくらいの人が覚えているだろう。95年、32試合の出場に終わった。中心選手として活躍したのも過去ではあったが、引き際は自分で決めさせてくれるはずだと思っていた。再起をかけて参加していた秋季キャンプ。練習中、球団職員に呼び出された先で待っていたのは、まさかの戦力外通告だった。84年にドラフト1位で入団してから、長年にわたってレギュラーを張り、選手会長も務めた。しかし、球団は功労者に花道を用意しなかったことが相当悔しかったようである。




 95年に大沢親分から次の監督に替わり、チーム改革が始まっていた。若手への世代交代が必要ということも分かっていた。だが、生え抜きのベテランに対する非情な対応が許せなかった。功労者に対する配慮の無さが許せなかった。


通常であれば、本拠地での最終戦に一塁側スタンドには家族や恩師、お世話になった関係者がそろい、最後の勇姿を目に焼き付けようと一挙手一投足に注目している。そして花束を手に、応援してくれたファンへのあいさつ…。中心選手の引退には、そんな「儀式」がふさわしいし、白井も有終の美を飾りたかったはずだ。

引退してもおかしくない状況で、96年オリックスへ意地の移籍をした。この年、オリックスは2年連続優勝に向けて序盤からひた走ったが、彼自身はもう心に燃えるもの、勝ちたいという情熱がないことに気づいていた。「やはり自分は日本ハムが好きなんだ」。古巣への愛着があらためて身に染みた。優勝争いが佳境に入った夏場には、この年限りでの引退を決めていた。

 

 しかし、オリックスで過ごした現役最後の1年間は、決して無為の日々ではなかった。

 同郷の先輩、中西太コーチと巡り合い、理想の指導者像をかいま見た。初めての2軍生活、いつの日かカクテル光線を浴びてプレーするのを目標に、黙々と汗を流す若手に思いを重ねた日々。そして天才イチローとの出会い。いずれも日ハムで花道を飾っていたなら経験できなかった経験を積んだ。


 戦力外通告という理不尽を恨んだこともあったが、指導者となった現在を支えているのはあの時の挫折だと言う。「感謝はできないけれど、最高の挫折だった」とコメントしている。


 「練習はうそをつかない」と信じ、寝る前の素振りを日課にしていた。中学時代から一日も欠かしたことはない。いくら深酒をしてもバットを振ってから寝た。引退する前日の夜もバットを振ったと言われる。


 出場1187試合、打率.246厘、49本塁打、334打点、168盗塁。