名球会に入れなかった名選手 | ほぼ日刊ベースボール

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野球選手の熱い過去や意外な背景を主な切り口に、野球への熱い想いを綴ります。

山本昌




あとわずかで名球会に入れなかった選手を紹介する。




石井茂雄 (1958-79) 189勝

足立光宏(1959-79) 187勝




 同時代に阪急で活躍した2人である。石井は太平洋、そして最後の年は巨人でプレーしたが、引退前の3年間は5、 5、 2勝であった。日本シリーズでいぶし銀の芸術的ピッチングを見せた阪急の足立も晩年の3年間は7、 4、 0勝で引退した。この記録だけを見るとメジャーに挑戦する桑田を思い出してしまう。

この時代の阪急は上記の石井、足立に加え、更に350勝の米田哲也(1956-75)、そして254勝の梶本隆夫(1954-73)と200勝以上またはそれ近く勝った投手が同時期に4人もがいたことになる。80年代の巨人の3本柱がかすれてしまう投手陣である。




木俣達彦(1964-82)1876安打




 69年ににセ・リーグの捕手では史上初の30本塁打となる33本塁打をマークした中日の強打の捕手。典型的な長距離打者であったがゆえに粗さが目立っていたが、一本足打法でグリップを極端に下げてからトップの位置に持っていくマサカリ打法を編み出し上からボールをぶつけるレベルヒッターへ転向し安打を量産した。捕手として2142試合出場は野村、伊東に次ぎ、1876安打は野村に次ぐ堂々の2位である。




松岡弘(1968-85) 191勝




 堀内(203勝)、江夏(206勝)、そして平松(201勝)という同時代同リーグのエースが200勝を達成したのに刺激され200勝を目指した。73年には21勝、78年の日本一とMVP、沢村賞、80年には最優秀防御率を獲得。しかし、引退前の3年は順に、11、 1、 0勝。最後の2年は限界であった。




高橋慶彦(1976-92)1826安打




 70年代後半~80年代の赤ヘル黄金時代に、1番打者として活躍。古葉監督の下、「赤ヘル機動力野球の申し子」として3度の盗塁王を獲得。79年には33試合連続安打の日本記録を打ち立て、同年の日本シリーズではMVPにも輝いた。全盛期は福本豊の後継者とまで謳われるほど活躍した。選手時代に1741安打を記録。この時にまだ32歳だったために2000本は十分射程距離内だったが、ロッテ-阪神と渡り歩いた3年間は54、26、5本とたったの85安打に終り、35才でパットを置いた。




真弓明信(1973-95)1888安打

石毛宏典(1981-96)1833安打

松永浩美(1981-97)1904安打




 2000本目指して最後まで現役にこだわったが及ばなかった3人である。

真弓は晩年2年間に主に代打の切り札として 45、 3本の安打数。阪神を自由契約になっても現役続行に意欲を燃やしたが、他球団からの誘いは無かった。石毛は西武の監督要請を断わり、ダイエーで2000本を期したが、在籍2年でそれぞれ26、5本を記録。最後に失速した。松永も最後の2年は24、 3本。メジャー入りを志したが実らなかった。




斎藤雅樹(1983-2001)180勝

星野伸之(1985-2002)176勝




 分業制確立で、投手の名球会入り、つまり200勝達成は確実に難しくなっているのは事実である。その中では先発として着実に重ねて来た斎藤雅、星野に期待がかかった。しかし斎藤は5、3、2勝。オリックスから阪神に移籍した星野は5、1、2勝といずれも失速してしまった。斎藤は言わずと知れた80年代の最高の投手であり、星野もスピードボールだけがプロではないと示した偉大な投手であった。それでも200勝は遠かった。現役選手では山本昌が名球会に最も近い投手であるが是非とも頑張ってほしい。