プレーイングマネージャー列伝⑤ | ほぼ日刊ベースボール

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野球選手の熱い過去や意外な背景を主な切り口に、野球への熱い想いを綴ります。

別当薫

 







別当薫(1920~1999)




1952年、「平和台事件」で湯浅禎夫総監督・若林忠志監督が更迭されたのを受け監督代行となり、1954年から選手兼任で正式に監督に就任した。1957年シーズンを最後に現役を引退し監督専任。1959年限りで監督も退き、大毎(毎日改め)を去った。1962年~1964年近鉄監督、1968年~1972年大洋監督、1973年広島監督、1977年~1979年大洋監督を歴任。毎日(大毎)以外は中下位球団を率いていた事情もあり1度も優勝には恵まれなかったが、毎日では山内一弘・榎本喜八、近鉄では土井正博、大洋では田代富雄といった強打者を育てた。とりわけ、まだ18歳・プロ2年目だった土井を周囲の雑音をものもせずに使い続け、実戦の中で鍛え上げたのは語り草となっている。ちなみに、通算1000勝以上の監督で優勝経験がないのは別当ただ一人である。




1980年より大洋球団の常務取締役・球団代表に就任した。1988年野球殿堂入り。1970年代に出演したHOYAメガネ・バリラックスIIのCMが今でも語り継がれるなど、おおよそプロ野球選手とは思えない知的な印象から「球界の紳士」と呼ばれたが、実戦では強打はもちろん攻走守3拍子揃った選手として活躍。パ・リーグ初の「3割30本塁打30盗塁」を達成するなどアグレッシブなプレーを身上としていた。三重県尾鷲市に全身像が建てられている。




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現役:1948~49(大阪タイガース) 50~57(毎日オリオンズ)


監督:1952、54~59(毎日オリオンズ) 62~64(近鉄バファローズ) 68~72(大洋ホエールズ) 73(広島カープ) 77~79(大洋ホエールズ)


2497試合 1237勝1156敗104分 勝率.517




甲子園に3回出場、慶応大学では打率5割で首位打者と獲得、1948年に大阪タイガースに入団。翌年2リーグ分立の際に毎日オリオンズに移籍。1950年にパ・リーグ初の「3割30本30盗塁」を達成するなど、走攻守三拍子揃った選手だった。


1952年7月16日、平和台球場での対西鉄戦。当時の平和台球場にはナイター設備がなく、雨も降っていたのだが、試合開始を予定の15時から16時55 分に延期して強行したことがこの事件の引き金となった。試合中にも2回の中断があり、グラウンド状態も悪くなる一方で、西鉄がリードして迎えた4回裏、守っている選手に湯浅禎夫総監督、若林忠志監督は遅延行為を指示し、試合をノーゲームにする作戦に出た。そして5回表に審判団がノーゲームを宣告、これに怒った西鉄ファンがグラウンドに乱入し、審判団と毎日の選手達を襲撃した。西鉄の選手達が止めに入るも収拾がつかず、警官3300人が動員される大騒動に発展した。この責任を取って湯浅総監督、若林監督は更迭、監督代行を別当が務めることになったのである。1954年からは正式にプレイングマネージャーに就任した、山内一弘、榎本喜八、そして後に移った近鉄で土井正博、大洋で田代富雄などの強打者を育てた。