岩瀬仁紀 | ほぼ日刊ベースボール

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野球選手の熱い過去や意外な背景を主な切り口に、野球への熱い想いを綴ります。

岩瀬仁紀
 



現在のプロ野球で最も安定したサウスポーといえば岩瀬仁紀であろう。今や球界を代表するサウスポーとなった彼のアマチュア時代を知る者はそれほどいない。




高校は西尾東高校に進学。限りなく弱い野球チームだった。野球が強い学校に行って甲子園めざすのもいいとは思っていたが、結局そういう学校から誘いがなかった。そんな状態で野球が強い学校に行っても、レギュラーになれなかったらこれほど寂しいことはない。だったら自分の家の近くの学校で野球をやってもいいかというのが彼の結論だった。




高校卒業後は、愛知大学に進学。

ピッチャーで入学したが「野手だったら1年からレギュラーで使ってやる」と言われて、野手に転向。ただそこですごした生活は決して野球漬けのものではなかった。普通にバイトもしていたという。




この頃には野球で生きていく覚悟のようなものはできていたが、プロになるには何か足りないと思っていたという。高校時代の試合にはスカウトも来ていたらしいが、結局高校卒業時には声がかからなかった。




大学3年生の時、チーム内で投手の人数が足らなくなって「自分がやる」と立候補して、また投手に戻った。ただリーグ最多安打記録に近づくほどの打撃の成績を残していたため、「野手ならプロに行けるけど、投手なら社会人」と言われていた。ところが、めざしていたリーグ最多安打記録にあと1本で届かなかった。岩瀬にとって『この記録を破ること』イコール『自分の壁を破ること』だったという。この記録を破れなきゃ、野手としてプロには行かない、と決めていた。だからピッチャーとして社会人に行こう、と。もし記録を達成していたら打者・岩瀬としてプロに入団していたかもしれない。




ただ野手は大学でずっとやってきて、自分の実力も見えていたという。でもピッチャーとしては未知数。自分がどれくらいのレベルにあるか、どこまで伸びるのかもわからなかった。だったら可能性があるピッチャーに、と。また野手として社会人野球に行くと金属バットを握るようになる。プロは木製バットだから感覚も違う。総合的に考えて、社会人の後にプロをめざすならピッチャーで、という選択をしたのである。そして岩瀬の生命線ともいえる鋭いスライダーをマスターする。




社会人時代はもちろん厳しかったようだが、それまでの学生野球時代はどこか厳しさとは縁遠い、それだけにプロを意識するには難しい世界に存在していたと思う。

しかしプロになりたいと一心の岩瀬は、常に等身大の自分を見つめ、必要な努力を必要な時にしてきたに違いない。




実力や素質が岩瀬より上の選手はごまんといるだろう。しかしプロは自分で考え、自分で生き抜く世界。野球の強い学校に行けば全て組まれたメニューをこなせばそれなりに結果を出せるかもしれない。しかしそんな選手がプロの世界で生き抜くには免疫がなさ過ぎる。そういった点で岩瀬の学生時代はプロからは遠いように見えて、実は彼にとっては確実な道だったのかもしれない。




その実力だけでなく、そのスタイルもまた、興味深い選手である。