ミスターロッテ | ほぼ日刊ベースボール

ほぼ日刊ベースボール

野球選手の熱い過去や意外な背景を主な切り口に、野球への熱い想いを綴ります。

有藤道世
 




今年のロッテは本当に強かった。シーズン中は正直、今年ロッテが優勝しないと今後するときはないのではないかと思ったほどだ。ソフトバンクには申し訳ないが、ロッテに優勝してほしかった。投手も野手もバランスの取れた非常に良いチームであることは誰もが認めると思う。


ロッテと言えば、戦後最大の右打者、落合博満が三冠王を取ったことが非常に印象的であるが、この有藤道世もまた絶対に忘れてはならないロッテを代表する野手である。




高知高校のエース兼四番打者だった有藤は夏の甲子園に出場する。その時、南四国大会ではあの尾崎正司(プロゴルファー尾崎将司)を擁する海南高校(徳島県)を破って優勝を果たした。しかし、甲子園では思わぬ悲劇が待ち受けていた。1回戦の秋田工業高校戦での初打席で、有藤は、相手投手の速球を顔面に受けてしまったのだ。担架に乗せられて退場した有藤は、そのまま病院へ運ばれることになる。ところが、高知高校は、有藤抜きでも勝ち進み、あろうことか全国制覇を成し遂げてしまうのである。有藤にとっては自らがヒーローになりそこねた悲劇の舞台が甲子園だった。




有藤は、長年にわたってロッテの中軸打者であり続け、その貢献度の高さから「ミスターロッテ」と呼ばれることになった。有藤は、2度の優勝に貢献したこともさることながら、8年連続20本塁打以上を含む20本塁打以上11回、3割以上4回、ベストナイン10回、20盗塁以上6回、ゴールデングラブ賞4回など、残した実績を数えればきりがない。しかも、走攻守いずれにわたっても、超一流の実績を残しているのである。そして、集大成は、2000本安打達成だろう。15年連続で100安打以上を記録し、ロッテ一筋で2000本安打を達成した最初の選手となったのである。

--------------------------------

高知高校では3年夏に甲子園に出場する原動力となったが、甲子園では1回戦で死球退場してチームの全国制覇には貢献できなかった。近畿大学では三塁手として3度の優勝に貢献するなど、注目を集め、69年にドラフト1位でロッテに入団する。そして、プロ1年目からレギュラーを獲得し、打率.285、21本塁打で堂々の新人王を獲得する。2年目の70年には打率.306、25本塁打、80打点、27盗塁と走攻守にわたって素晴らしい成績を残し、ロッテのリーグ優勝に大きく貢献した。72年には29本塁打、31盗塁を残し、74年には25本塁打、20盗塁の活躍でロッテのリーグ優勝に貢献する。さらに、日本シリーズでは打率.429、2本塁打という驚異的な成績を残し、チームが中日を4勝2敗で破って日本一になる原動力となった。77年には打率.329で念願の首位打者のタイトルを獲得。チームも後期優勝したが、プレーオフで阪急に敗れている。79年にも打率.287、29本塁打、75打点という活躍を見せ、80年には打率.309、22本塁打、27盗塁を残した。80年、1981年とロッテの前期優勝に貢献している。82年には5度目のシーズン3割以上を記録。85年7月にはロッテの生え抜きとしては初の通算2000本安打を達成する。86年限りで現役を引退すると、そのままロッテの監督に就任し、87年から89年まで3年間指揮をとった。


 大型打者ながら無駄のない打撃フォームで本塁打やヒットを量産し、盗塁やファインプレーも随所に見せた万能選手である。走攻守にわたってロッテの中心選手として長年活躍し、2度の優勝に大きく貢献しており、ロッテ一筋で働いた「ミスターロッテ」である。

通算成績(実働18年):打率.282、348本塁打、1061打点、2057安打、282盗塁。新人王(69)首位打者1回(77)ベストナイン10回(69~75・77・80~81)ゴールデングラブ賞4回(72~75)