石井弘寿 | ほぼ日刊ベースボール

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野球選手の熱い過去や意外な背景を主な切り口に、野球への熱い想いを綴ります。

石井弘寿




巨人に入団した辻内が歴代アマ最速左腕。それならプロ最速左腕は誰か。

それはメジャー入りを目指す石井弘寿である。




そんな石井が“プロ”と出合ったのは、東京学館高校(印旛郡酒々井町)時代。野球部の一年先輩に、後に横浜ベイスターズに入団した相川亮二捕手がいた。プロ球団から注目を集めた相川のもとには、数多くのスカウトが訪れた。ある日、相川めがけて素晴らしい球を投げる二年生ピッチャーがスカウトたちの目に留まった。それが石井弘寿だった。

PL学園の福留が注目された一九九五年のドラフト。「場合によれば指名はないかも」と冷めた気持ちでいた石井に届いた知らせは、“ヤクルト四位指名”。在京球団だったこともあり、石井は迷わず入団を決めた。




プロ一年目、石井は早くも一軍で十三試合に登板し一勝。防御率三・三八を記録し、高卒ルーキーとしては上々といっていいスタートを切った。しかし、続く二年目の登板はわずか一試合、三年目はひじの故障もあり登板はなし。四年目は二十五試合を投げるも未勝利で防御率六・二八という、不本意な成績を残す結果になった。


そんな彼に、野手転向が示唆されたのは、五年目のシーズン開幕前だった。バッティング練習とピッチング練習を並行して行うというつらい日々を送ることになったが、そんな逆境が、石井の心にある変化をもたらしたという。いわゆる「がけっぷち」の境地だろう。この1球に込める思いが石井を変えた。




ピッチャーとしての危機を迎えていた石井は、二〇〇〇年シーズンの開幕に向けて再び調子を取り戻していく

先輩選手の一言も石井を大いに励ました。二〇〇〇年のオープン戦も残り二試合というときになって、ようやく一軍のオープン戦に呼ばれた。ここで良い結果を出さなければ、石井の開幕一軍入りはなくなる。試合前のブルペンで、古田捕手が久しぶりに石井のボールを受けてくれた。

「投げ込みを終えると、“おお、ええ感じやん”って古田さんが言ってくれたんです。その言葉で自信が持てて、その日は良いピッチングができました」

 ぎりぎりで開幕一軍に滑り込んだ石井は、その年、百五十キロを超す速球と安定した制球力で四十五試合に登板。四勝、防御率三・三〇という好成績を残して、勝ち試合に不可欠なセットアッパーとして大きな信頼を得たのだった。




そしてその後、五十嵐とロケットボーイズを結成し、セットアッパーとしての地位を確立。今年は37セーブを上げ豪腕ストッパーとして活躍した。




そんな石井もいよいよメジャー挑戦。同じ剛球左腕ワグナーに似たその左腕が、メジャーの猛者たちをきりきり舞いにさせるのが楽しみである。